目覚めると、明るい朝日がベッドの上に差し込んでいる。 ぼんやりと見開いた目に最初に写ったのは見覚えのない白く薄いカーテン。 目だけを動かしゆっくりと辺りを見回してみる。 壁も天井も、身体に纏わりつくベッドのリネンも、何もかもが目に痛いくらい白一色の部屋に彼女は独り横たわっていた。 「ここは…どこ?」 不思議な感覚だった。 心を乱す色は何もない、白い虚無の空間。そんな中で耳障りな電子音に混じり木々のさざめきが聞こえる。カーテンの揺らぎで、僅かに開けられた窓から時折吹き抜ける風が早朝の澄んだ空気を運んでくるのが分かった。 『朝だわ…もう起きなくては』 起き上がろうとした彼女は、その時初めて自分の身に起きている異変に気がついた。 無数のコードで刻々と不愉快な機械音を刻む機器類に縛り付けられた体。 鼻に入ったままのチューブは息苦しく喉の奥まで塞いでいる。 そして、左腕には固定された点滴の針。 見ると鬱血が左右両方の腕にあったが、特に左側の痕はひどかった。腕中いたるところが赤黒く変色し、腫れあがっている。 『いったいいつの間に…?』 自由になる右手で固定された左腕に触れてみた。 それは自分のものだとは思えないくらい肉のない、筋張った手だった。 その時、定時のバイタルチェックをするために看護師が入ってきた。 慣れた動作で扉を閉め、まず患者の状態を目視しようと目を上げた看護師は驚きの声を飲み込んだ。 昨日まで意識がなく身動き一つしなかった患者が、ベッドの上で身を起こしていたのだ。 看護師は、医師を呼ぶために部屋を飛び出していった。 その姿を目に端に捉えながら、ベッドの上の彼女は首を傾げた。 ここが病院であることは間違いない。看護師がいるのだから。 ぼんやりとした意識の中でもそれは理解できた。 だがなぜここにいるのか、その理由がどうしても思いだせなかった。 そしてなぜ自分がこんなに重篤な患者のように扱われてるのかも。 なぜ?どうして? しかしおぼろげな記憶をたぐっても、明快な答えは浮かんで来ない。 だから彼女は考えた。 これはきっと夢なのだ。 目を閉じ、心の中で呪文を唱えるように何度も自分にこう言い聞かせてみる。 『ほらやっぱりこれは夢よ!』 しかし目を開けても、そこにある白い景色は変わらなかった。 パニックに陥りそうになり急に呼吸が荒くなる。 何が何だかわからなかった。 気を取り直し、自分を落ち着かせようと何度か大きく深呼吸するが、鼻に通された管が邪魔をして思うように息が吸い込めない。ひゅうひゅうという妙な音ばかりが耳の中に響くだけだった。 そう、これは夢。 私は夢を見ているの。 現実ではない。 落ち着くのよ。 落ち着かなくては。 すぐに部屋は出入りする人々で慌しくなっていった。 何人もの医師や看護師に顔をのぞきこまれ、そのたびに体を強張らせた。 周囲では医療器具の耳障りな金属音が響き、消毒液やアルコールの強い匂いが漂っている。 彼女はそんな光景を尻目に、ただ黙って天井を眺めていた。 まるで自分は良くできたテレビドラマのセットの中にいるようだった。 なぜ私はこんなところにいるのだろう…なぜ? しばらくして誰かが入口のスライドドアを開ける気配がした。 そこには一人の男性が立っていた。 騒然としていた病室は彼の登場によって一瞬のうちに静まり返り、緊張を隠せない医師たちは場所を空け、彼をベッドの側へと促した。 その場にいた者は皆、彼の動向を固唾を呑んで見守っている。 「香流」 彼はそう呼びかけると、静かに彼女に歩み寄った。 彼女は天井を見つめたまま、彼に視線を向けることもなく、微かに口元を歪めた。 心を揺らす懐かしい声。 この声を、私はどこかで聞いたことがある。 しかし同時に頭の中で警鐘がなり始める。 この声に騙されてはいけない。この声を受け入れてはいけない、と。 側まで来て立ち尽くす姿に、彼女はようやく穏やかな眼差しを向けた。 だがそこには何の感情も映ってはいないことに彼は気付いた。 驚きも、喜びも、悲しみもそして…怒りさえも。 「香流?」 もう一度呼びかける彼の懇願するような口調にも、彼女は貼り付けたような笑みを崩さなかった。それはまるで初対面の人間に対する儀礼的な微笑みだった。 そして彼女は彼を見上げながら、掠れた声で一言だけ答えを返した。 「あなたは…誰?」 周囲は凍ったように動かなくなった。 彼の顔から表情が消える。 彼女はそれでも微笑んでいた。 まるで何事もなかったかのように…。 HOME |