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True Colors  9


ここに連れて来られてから一週間過ぎた。
その間、取り立てて何もすることがなく、悠莉はいささか暇を持て余していた。
幸か不幸か、周囲との会話は可能なのでコミュニケーションについては問題ないし、テレビも内容は理解できる。ただ、彼女の場合、英語を話せても活字が読めないという弱点があるせいで、新聞や雑誌が暇つぶしに使えないのは痛いところだ。

悠莉はぼんやりと窓の外に浮かぶ大都会の明かりを眺めてみる。
幼い頃に母と過ごしたのもこんな感じの場所だったかしら?
いや、こんな整然とした街並みではなく、もっとごみごみとした、けばけばしいネオン煌めく街の中だったように思う。
ただ、母親はそこで働いていたわけではなかった。子供を連れた女が素性を隠して一人で住んでもさほど注意を引かないから、そういう理由から彼女はそんな場所を選んで住処にしたのかもしれない。

母は悠莉の出生を届けなかった。
だから彼女は、本当は自分がいつ生まれたのかも知らない。母親が亡くなった後に悠莉が保護された時の所持品から出て来た病院の支払い明細から推測して、施設や役所の職員たちが勝手にその日を誕生日と判断しただけだ。
その明細でさえ、母が偽名を名乗り、架空の住所を使っていたせいで、本当に自分の出生時のものかどうかも分からないというのに。

母が亡くなっているという知らせが祖父の元に届いたのは、死後半年余りたってからのことだった。
それより少し前に祖母が亡くなり、母に知らせようにも行方が分からなかった祖父が家出人の捜索願を出したことから、身元が判明したのだそうだ。
祖父と母は悠莉が生まれる前、もっと言えば母が親の意に背いて家に戻らず、都会での暮らしを選んだ時から連絡を絶っていた。
もちろん、祖父は母親に恋人がいたことも、彼女が密かに子供を産んでいたことも知らなかった。
私の存在を知らされた時、祖父はさぞ驚き戸惑ったことだろう。
それでも祖父は私を引き取り、家に連れて帰った。恐らくは、自分の孫だから面倒をみなければならないという義務感だけで。


こうして祖父と一緒に暮らし始めた悠莉だが、お互いなかなかそれに適応できなかった。やはり一番ネックになったのは言葉の問題だ。
当時の彼女は小学生の割にあまり日本語の語彙が豊かではなく、コミュニケーションを取るのが難しかった。もちろん祖父は英語などまったく理解できず、結局のところ意思の疎通がうまくできなかったのだ。
この時にもう少し自分が祖父に打ち解けることができていたなら、祖父との間に蟠りを作ることなくもっと良い関係を築けたのかもしれない。だが、最初の大事な時期に互いを知る機会を逸した代償は大きく、祖父が亡くなるまで遂にそれが解消されることはなかった。

「まぁ仕方がないわよね。突然『孫です』という存在が現れて、しかもこの成りでは驚くなって方が無理よ」
悠莉は磨き込まれた窓ガラスに映る自分の姿に苦笑いする。
面差しは母親に良く似ていると言われるが、それ以外はどこをどう見ても違いは歴然だ。祖父は孫娘の中に自分に似たところを探し出すことさえできなかったのではないだろうか。 いや、それを言うなら、親族や友人たちの誰とも違う風貌。
口では日本人と言い、日本語を話しながら、日本人ではない自分の姿。

悠莉は掛けていたメガネを外すと、目を閉じて指先で鼻梁を押さえた。
薄い色の入ったレンズにほとんど度がない伊達メガネを、彼女は子供の頃に祖父のところに引き取られてからずっとかけ続けていた。なくても支障がない飾り物のメガネは暑い夏場やレンズが曇る真冬などは邪魔になるが、それでも未だに手放せずにいる。

「ふう。本当ならもう止めてもいいんだけどね」
そう言って開いた目の奥の光りは、茶色と薄い緑がまじりあった不思議な色合い。カラーコンタクトでも使用しない限り、日本人の瞳には決して作られることのない取り合わせだ。

この瞳を鏡で見るたびに、彼女は自分が外国人の血をひいているという事実を思い知らされる。
母は悠莉にこの瞳をもたらした男に、どういう思いを抱いていたのだろうか。自分の子供がこんな容貌を持って生まれてきたことを、どう感じたのだろうか。
あと10年母親が生きていてくれたら、訊いてみたかったことは他にもたくさんあった。だが、それも今となっては叶わぬ夢だ。

一方、一度も会ったことのない「父親」という男性は、彼女の意識の中には存在しないものだ。
母親が一方的に捨てられたのか、それとも二人が合意の上で別離を選んだのかは定かではないが、結果として悠莉にはその存在に触れる機会は与えられなかった。
だから父親を恨んでいるかと訊かれれば「No」と答える以外にない。
恨むという行為には、それ相応の理由や原因があるものだろうが、彼女にはその感情さえも持ち合わせていないからだ。
だから今さら会う必要も感じない。
たとえそれが今生の別れになるとしても、今さら会ってどうなるというのか。

悠莉はひんやりとした窓ガラスに額を押し付けた。
いや、気持ちを偽るのは止そう。
彼女とて、氷でできているわけではない。
他人より起伏がないとはいえ、感情だってちゃんとある。死にゆく者への最後の餞を拒むことに良心が咎めないというわけではないのだ。
ただ、これが赤の他人に対する行為ならば、彼女は何も考えずクレイグたちの意図に従ったかもしれない。何も考えずに一度にこやかに「父親」を見舞い、優しい言葉の一つも掛ければ、それで即席の娘としての義務は果たされる。
そこまで考えて、彼女はふっと唇の端を上げて薄く笑った。
もはやお為ごかしは言うまい。
認めたくはないことだが、自分はそれをするのが怖いのだ。これまで父親というものに対して、何も感じず何も考えずにいることができたのは、ひとえにその存在を実感したことがなかったからだ。しかし仮にこれでその男性が自分の父親だと言う意識を持ってしまったとしたら、今後も今迄のように自分には関係ないときっぱり言い切ることができるだろうか。
彼女にはその自信がなかった。

「失礼します」
突然声が掛かると同時に悠莉の私室のドアが開き、越智が入って来た。
「どうしたんですか?」
いつもの彼ならば、悠莉が応えるまで決してドアを開けない。それが今日はなぜか彼が焦りながら室内に飛び込んできたのだ。
「夜分にすみません。申し訳ありませんが、すぐに外出する準備をしていただきたいのです」
「外出?」
彼女はこちらに来てからほとんどこのマンションから出たことがない。外の世界にあまり興味がなかったし、出かける際には必ず誰か―― 無口で厳つい男、恐らくはボディーガードと思われる ――がいちいち随行してきて、鬱陶しいからだ。
「こんな夜遅くに、どこへ?」
越智は一瞬言いよどんだが、諦めたように口を開いた。
「ビンガムの本宅へ」
「ビンガムの、って?」
「総帥が……ジョージ・ビンガムが危篤に陥り、もうあまり時間がないそうです。それでミスター・バートンからあなたをお連れするようにと申しつかってまいりました」
「それは……命令?」
「そう考えていただいてもかまいません。とにかくもう一刻の猶予もないようです。すぐにお連れいたしますから、速やかにご準備をなさって下さい」




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