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True Colors  6


ここのところ、悠莉の身辺が何となく騒がしかった。
取り立てて何かが壊れたとか、なくなったとかいうことはないものの、家に帰ると朝出た時とは微妙に違う位置に物が置き直されていると感じることがしばしばあった。
通勤の途中で越智に待ち伏せされることは想定の範囲内であるが、それ以外にもふとした拍子に誰かが自分のことをうかがっているような気配を感じることもある。
自意識過剰と言われそうだが、幼い頃から周囲の動きを読みながら暮らすことが習い性になっている彼女は、どうしてもそれを軽く受け流すことができなかった。

越智にくぎを刺したことで、もう表だって付け回されることはなくなるはずだが、それでも何となくもやもやとした、得体のしれない不安は拭い去れなかった。根拠のないことではあるが、自分の直感を信じるならば、いずれ必ず何かが起きそうな胸騒ぎがした。
こんな時、悠莉はいつも身の回りを片づけ始める。いつも以上に念入りに家の中を整え、まるで引っ越し前のように衣類品や食品といった日常のものまで不要品を残さないように処分していく。
そして貴重品や絶対に必要なものだけをコンパクトにまとめ、日頃使っているカバンにすべて詰めてしばらくの間持ち歩くのだ。
貯金通帳、証書類、印鑑、薬の類、そして母親の遺品の日記。これだけでもかなりの重さがあり、バッグの形が崩れるほどぱんぱんに膨らんでしまうが、それでも彼女はこれらを片時も離さず手元に置いていた。
学生時代それを見た友人に、まるでバッグレディのようだと言われたこともあったが、悠莉はどうしてもその習慣を止めることはできなかった。
それは、不本意ではあるが自分が幼い頃に見ていた母親の姿を重ね合わせるような行為だった。
彼女のおぼろげな記憶の中で、母はなぜか常に人目を避けるようにして暮らしていた。住んでいたのは大概都会の真ん中にあるマンションやアパートで、それも繁華街に近く、夜中でも平気で人が出入りするようなところばかりだったと覚えている。今思えば、そのあたりの賃貸住宅の相場から考えて、決して生活が苦しく貧しかったとは思えないが、それでも母は最低限のものしか所有せず、つつましく暮らしていた。どこに住んでも人付き合いはほとんどなく、母子二人だけのひっそりとした暮らし。
悠莉と母がその生活をしていた間、二人は何一つ外界との接点を持たなかったのだ。
だから、母親の死後、暫くの間祖父は自分の孫の存在を知らなかったという。長い間娘と音信不通だった祖父だけでなく、彼女の友人知人の誰一人として母が未婚のままで子供を産んだことを知らされていた者はいなかった。

どうして母は父親や友人たちとのかかわりをすべて断ってまで、娘の存在を隠そうとしたのか。何がそこまで母を追い詰めたのか。

今となっては悠莉には知る由もないことだが、彼女が自分の姿を鑑みた時、それが彼女の出自に何だかの形で関わっていることは何となく理解できた。
だから母はいつ、いかなる時に不測の事態に遭遇しても生き抜けるように備える術を幼い悠莉に教え込んだのだろうか。
こうして子供の頃に無意識のうちに刷り込まれた教訓は、大人になり、自分なりの安定を得た今になってもある種の不安を伴いながら、彼女の中に深く根付いていた。



翌日の夕方、いつもよりはるかに重量を増したバッグを肩から下げ、仕事帰りに通い慣れた農道を自転車で走っていた悠莉は、前方の路肩にいつも越智が乗りつける黒い車が、もう一台別の車を伴って停まっているのを見て顔を顰めた。
「昨日あれだけ言ったのに、また性懲りもなく……」
無視して素通りしてしまおうと、スピードを上げて近づいた彼女の前で急に車のドアが勢いよく開く。端に寄せているとはいえ、目いっぱいドアを開けられると狭い道の半分くらいまでは塞がれてしまう。そのまま突っ込みそうになった彼女は慌ててブレーキをかけながらハンドルを切った。
「ちょっと、危ないじゃないの」
自転車の車輪がロックし、横滑りしながらも何とかぶつかる直前で止まると、悠莉は憮然とした様子で車から降りてきた人影を睨み付けた。
『これは失礼』
突然耳にした英語に、思わず彼女の動きが止まる。
「あなた、誰?」
そこにいたのは想像していた越智ではなかった。見たことのない男性、それも一見してはっきりそれと分かるような外国人だ。
反対側のドアから慌てて飛び出してきた越智の姿を認めた悠莉は、説明を求めて男性の方を顎でしゃくった。
「越智さん、これは一体どういうこと?この人は何なの?」
「あ、すみません。こちらはクレイグ・バートン。アメリカにあるM&B本社の……」
『ユーリ』
越智の紹介を遮るようにして、クレイグが彼女の方に向かい一歩進み出る。
それに気圧されるように、悠莉は一歩後ろに引いて身構えた。
「何なの、この人?」
『ミスターバートン、ちょっと待って下さい。まだ彼女は何も知らされていない……』
『いいから、君は下がっていたまえ』
高圧的な態度で越智を抑えると、クレイグは彼女のすぐ目の前に立ち塞がった。身長が160センチ少々と決して小さくはない悠莉だが、側にいる男性は見上げなければならないほど背が高い。銀色に近い、プラチナのようなブロンドの前髪が風になびくと、その下から印象的な濃い青色の瞳が現れた。

『ユーリ、一緒に来てくれ。君の父親が待っている』
それを聞いた越智が中に入り、慌ててクレイグの言葉を日本語に訳そうとするのを、今度は悠莉が止めた。
『父親?一体何のこと?』
『ほう、君は英語も理解できるのか』
クレイグは少し驚いた様子だったが、すぐに納得した顔をする。
『ならば話が早い。君の父親はジョージ・ビンガム。M&Bグループのトップでアメリカ有数の大富豪だ』
だが、そこで彼女はクレイグが予想していたような反応を示さなかった。それどころか、そこらあたりの通りの名前でも聞いた時のような顔で彼を見ると、興味もないと言わんばかりの表情でこう返したのだ。
『ああ、そう。で、それが何か?』
そのあまりに冷たい反応に、思わずクレイグが眉を顰める。
『君に会いたいと探している。彼は君の本当の父親だ』
『父親ねぇ』
悠莉は困ったような表情を浮かべた。
『生憎と、私には生まれた時から父親なんていないのよ。過去に母親をだまして妊娠させて、そのまま捨てたという無責任な男がいたことだけは確かだけど』
そう言った彼女はふっと唇の端を上げて薄く笑った。
『そうね、現実に私と言う存在がある以上、その原因になったものがなかったとは言えないわよね。でもそれは私にとっては単なる精子提供者でしかないの。それ以上も以下もない。そういう風にしか思えないし、これからも思うことになるでしょうね』
思わぬ方に展開していく話に、クレイグと越智は顔を見合わせた。
『だから私はその人に会いたいと思わないし、会いに行こうとも思わない。そのお金持ちという人の事情は分かりかねるけれど、私の方はそんな感傷は一切持ち合わせていない。自分の父親なんて、この世の中に存在しないものだから』
悠莉はその場で小さく肩を竦めた。
『それが私の答えです。ということで、ご理解頂けたかしら?』

『それは、君が私と同行するのを拒否するという意味か?』
クレイグは厳しい口調で悠莉に詰め寄る。
『そうです。大体一緒に来てほしいと言われて、それではなんてついて行くバカがいると思う?』
『君の父親が死の床にあると言っても?』
それを聞いても彼女の表情が変わることはなかった。
『そんなこと、私には関係ありません』
微塵の迷いもなくはっきりとそう言い切る彼女に、クレイグは表情を険しくし、越智はどうしたものかとただ狼狽えるばかりだ。

『それでは仕方がないな』
と、急にクレイグは指を鳴らすと出て来た男たちに感情のこもらない冷たい声で指示を出した。
『総帥のご令嬢を空港までお連れしろ』
後ろに停めてあった車から音もなく表れた男たちに両腕を取られた悠莉は、必死に抵抗したが、そのまま車内へと押し込まれてしまう。
「ちょっと、これって一体どういうこと?」
説明を求めようにもクレイグと越智は一台目の車に乗ってしまい、彼女が拘束された車に乗る者たちは何を問うても一切答えようとはしない。
「聞くだけ無駄……ってわけね」
両側を屈強な男に挟まれて身動きができない彼女だが、それでも頭の中だけはフルスピードで。回転し続けている。
車がどこに向かっているのかさえ知らされない彼女は、シートに沈み込むと諦めたように目を閉じた。

この話にこんな裏があったなんてね。

これまでの話の展開は分からないが、『父親』が名乗り出てきたところで彼女にはどうする気もない。
今さら会ったところでどうなるというのだろうか。
「どうもなりはしないわよ、多分」

悠莉を乗せた車は見慣れた町の中を通り抜け、そのまま南下していく。彼女が連れ去られた後には自転車が一台、道の端で倒されたまましばらく放置されていた。




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