以前はほとんど化粧っ気のなかった悠莉だが、今では人並みにはするようになった。身だしなみにも一応気を付けている。 自分が気を抜くと教える生徒たちもだらしなくなってくる。人の前に立つ以上、最低限そういったことも必要だと気付かされれば嫌でもそうせざるをえない。 出掛ける前、彼女はいつものようにドレッサーの前で服装のチェックをした。今日はいつもより少し堅い感じのスーツを身に着けた悠莉は、自分の指にはまったリングをくるりと回した。 「今日の格好なら、これをしていてもおかしくないわよね」 クレイグがくれたマリッジリングはアメリカを去る際にそのまま持って来てしまった。実質的な結婚生活が破たんしているに等しい状態の今では、持っているのも申し訳ないような気もするのだが、この中にはGPSの装置が埋め込まれている関係上体から離すことが許されず、平素は仕方なく首からチェーンでぶら下げている。 支度を済ませてから、昼過ぎに家を出て職場に向かう。警備の問題で運転はできないが、代わりにボディガードの女性が毎回目的の場所まで乗せて行ってくれる。 使っているのはありがちなハイブリッドカーで、見た目はどこにでも走っていそうな車だが、実は窓ガラスは防弾、ボディも特殊な金属で加工してあり、ちょっとやそっとの衝撃では簡単にはへこんだり潰れたりしないと聞かされている。 ありとあらゆるものが特別製で、しかもVIP並みの特殊対応だ。 帰国する前にそれを聞かされた時には心配し過ぎだと笑い飛ばした悠莉だが、クレイグはどうしてもそこだけは譲らなかった。 車の後部座席から車窓を眺めながらその時の彼の様子を思い浮かべた彼女は、そんなこともあったなぁと思い出して苦笑いする。 振り返れば、そういったことの一つ一つが今ではもう、はるか昔の出来事のようだ。 ビルの玄関先で降ろしてもらい、塾のある3階まで階段で上がると、悠莉はその日の授業内容を確認して準備を済ませ、夕方からの授業に合わせて通ってくる生徒を教室に迎え入れた。 「先生って結婚しているんですか?」 時間が終わると、生徒たちはその日の質問や、学校の授業で分からなかったことなどを聞きに彼女の周りに集まってくる。 その中の一人が目ざとく悠莉の指にはまったリングを見つけて聞いてきた。 「一応ね」 「ええっ、マジで?」 「ダンナさん、どこにいるんですか。何で一緒に住んでいないの?」 姦しい女の子たちの興味が一斉にそちらに向く。 小さな田舎町のことだ。隣の町に住む講師のことなど、ちょっと近所に知り合いでもいようものなら、すぐにでも詳らかにされてしまう。そのために彼女が一人暮らしだということも、大概の生徒たちは知っているのだ。 帰国後は旧姓の片岡を名乗っているせいで周囲からは独身と思われているが、彼女は敢えてそれを訂正しようとはしなかった。またいずれ、クレイグとの離婚が成立すれば名前は元に戻るのだからと。 「ちょっと一緒にいられない理由があってね、今は別居中ということ。さぁ、もう授業の質問がないなら帰りなさい」 「ええーっ」 まだ探り足りない生徒たち、特に女の子は不服そうな声を上げる。 「ほら、10時を過ぎているのよ。みんな迎えが来ているでしょう」 田舎の交通機関は最終が早い。この時間になると、ほとんどの子は親や兄弟の迎えがないと帰宅できなくなってしまうのだ。 生徒たちを送り出すと、悠莉は自分も帰り支度をして控室にもなっているオフィスを出る。 少し前に連絡を入れておいたので、もうビルの前には迎えの車が来ているはずだった。 「悠莉様、お久しぶりです」 「え、越智さん?一体どうしたの?」 だが入口のところで車を停めて待っていたのは、ボディガードではなく越智だった。 彼は悠莉が帰国するのに合わせてアメリカを離れ、ビンガム・ジャパンの本社付に復帰した。悠莉を庇って銃撃された際に呼び寄せた婚約者とはアメリカ勤務中に結婚し、クレイグの話では、確か最近子供も生まれているはずだ。そう聞くと彼はにっこり笑って答えた。 「はい。先月無事男の子が」 「そう、おめでとう。よかったわね」 悠莉も嬉しそうに頷く。 「で、今日はどうしたの?」 「悠莉様、総帥が日本に来られているのはご存知でいらっしゃいますよね」 「ええ。連絡はもらっているわ」 ただしクレイグのスケジュールが詰まっていて私的な時間が取れないことは聞いていたし、悠莉の方も仕事の予定が入っていたので会いに行くことは考えていなかった。それに、すでに形骸化しつつある夫婦が今さら会ったところでどうなるのかという強がりが心のどこかにあり、それらが彼との対面を躊躇わせたことも確かだ。 「関西での予定がキャンセルになりまして、宿泊予定地を東京に変更されたので今、移動中です。それで明日の上海のスケジュールまで時間に余裕ができたとのことです」 「そう。で、わざわざ知らせに来てくれたの?」 「はい。何分にも急でしたから、悠莉様と連絡がつかなくて」 仕事中は携帯を切っている。おまけにボディガードにも絶対に職場には入らないように言い渡してあるのだから仕方がない。 「総帥が既に動き始めていて、こちらも時間が圧していたので他を通さずに私が参りました」 越智はそう言うと悠莉の表情をうかがった。 「お会いになりませんか?」 「でも、彼、忙しいでしょう?私も明日は仕事があるし」 相変わらずクレイグは精力的に動き回り、多忙な日々を送っている。少しでも時間に余裕があるのなら、体を休めればよいのにと思うくらいだ。 「時差を考えて、そうですね、明日の8時前にはこちらを発つことになられるかと思います。 悠莉は時計を見てため息をつく。 「今11時前。すぐにここを出て、どう頑張っても東京につくのが夜中の2時か3時過ぎね。それまで彼に起きていろとは言えないでしょう」 「ですが、どうしても総帥は奥様にお会いになりたいと」 それを聞いて思わず悠莉は俯いた。会いたい気持ちは自分も同じだ。ただ、二人の置かれた状況を考えるとそう行動することが本当に正しいのか、判断を迷ってしまう。 「参りましょう。総帥がお待ちになっておられます」 「けど」 「たとえ悠莉様がおいでにならなかったとしても、多分総帥はお休みにはなりません。きっと待ち続けておられると思います」 そう、恐らくクレイグは一晩中でも眠らずに待ち続けるのだろう。来るか来ないか分からない、そんな彼女を、ずっと。 その様子を思い浮かべた悠莉は、大きく息を吐き出すと越智の方に向かって顔を上げた。 「分かりました。越智さん、彼のいるホテルまで案内をお願いします」 彼女を乗せた車は、一路東京を目指して夜の闇を走る。 窓の外を流れる車のライトを見つめる悠莉の心には、もはや明日の仕事も彼の予定も何も思い浮かばない。考えるのは、少しでも早く彼の元にたどり着きたいということだけだ。 車はノンストップで高速を走り続けたが、それでもクレイグが宿泊するホテルについたのは夜中の3時を回ってからだった。 ホテルの正面玄関で車を降りた悠莉はフロントの前を抜け、越智に教えられたとおりに部屋へと通じるエレベーターに飛び乗る。 彼が待つのは最上階に近いインペリアルフロアのスイートルーム。 すでに深夜ということもあり、照明は最小限に落とされてアテンダントもいないフロアに降りた悠莉は、その部屋の前で立ち尽くした。 躊躇う気持ちが、ドアの呼び鈴を押そうとする手を押し止める。 ここまで来ていながら最後の最後で勇気が持てない不甲斐なさと、今更会ってどうなるというのかという漠然とした不安で、自分の腕がまるで鉛のように重く感じられた。 こうしてドアの前でしばらく葛藤していた悠莉の視界が突然開け、その明るさに目が眩んだ彼女は抗う間もなく扉の中に引き込まれた。そして何か温かいものに触れる気配に閉じた目をそっと開けた。 「さっきから一人で何をやっているんだ?」 「えっ?」 自分のいる場所を認識するより早く、彼女の口元に唇が下りてくる。 その包まれる感触も、あたたかな温もりも、その肌から漂う香りさえ、間違えようがないほど深く馴染んだものだ。 「クレイグ」 「いつ声を掛けようかと思って君の百面相を見ていたんだが、相変わらず面白い反応をするな」 そう言って彼は悠莉を抱く腕の力を強める。 「なっ、何を」 もがく悠莉の抵抗をものともせずに彼女を抱きしめた彼が、耳元で囁く。 「会いたかった」 クレイグのその一言で、彼女は自分の躊躇いがすっと消えていくのを感じた。 「この髪も瞳も君そのものだ。俺が望んだ君自身の……」 そう言って背を撫でるクレイグの項に腕を回すと、悠莉は彼の顔を引き寄せ、唇を押し当てる。 「そう、これが私なの。どう足掻いても変えられない私自身。髪も目も、捻くれた可愛げのないこの性格もね」 それを聞いたクレイグがくくっと笑った。 「まったくな」 クレイグは悠莉の左手を取ると、その薬指にあるリングを見つめた。 「外さずにちゃんとしているんだな」 「……今日はたまたまよ」 即座に言いかえしてから、こういうところが本当にかわいくないのだと自分で気づいて苦笑いする。 それを察しているクレイグは何も言わずにその手を持ち上げ、リングに口づける。 「君が自分を否定しないのなら、それでいい。君が持っているものすべてが、それらの一つ一つが君自身を構築しているんだ」 「そうね、何一つ欠けても私じゃなくなるから」 目に見える物だけでなく、小さな思いのひと欠片でさえ、自分を作る大切なエレメントであることを今の彼女は知っている。 心を閉ざし偽ることの愚かさは、自らを否定して苦しんだ自分が一番よく分かっているのだから。 悠莉は彼の胸に顔を埋め、その温もりに身を委ねる。そしてたった一言、今自分が本心から思っている言葉を唇に乗せた。 「本当はずっと会いたかったのよ、あなたに」 HOME |