「本当に行ってしまうんだな」 空港のロビーの側にある貴賓室で、悠莉とクレイグは向かい合ってソファーに座っていた。 「……ええ」 それきり会話は途切れ、二人の間に沈黙が落ちる。 その間合いに落ち着けない悠莉は何かを確認するようにバッグから航空チケットを取り出し、必要もないのに飛行機の時刻や座席の番号に目を遣るとテーブルの上に置いた。 側では出されたコーヒーが、手を着けられないまますでに冷たくなっている。そのカップを脇に押しやったクレイグは不機嫌そうな表情で机の上のチケットを手に取った。 「あれほど帰国の際には会社のビジネスジェットを使えといったのに、君も相変わらず頑固だな」 「だって、私はもうビンガムグループとか関係なくなるんだし……」 アメリカを離れるに際して、悠莉は自らが保有していたグループ内における権限とジョージから相続した遺産の権利をほぼ放棄した。 一部財産、彼女が生涯食べるのに困らないだけの収益を得られる株式等は信託という形で現状のまま親族が管理するが、それ以外はすべてクレイグに譲るか寄付という形で慈善活動に投資したのだ。 「そう言うには時期尚早だろう。現に君は前総帥の一人娘であり、そして……まだ俺の妻なんだからな」 クレイグは彼女の帰国が一時的なものではなく、しかも同時に離婚を求めているのを知り、それらにかなりの難色を示した。何度も持たれた話し合いの場でも、互いの思惑は平行線をたどり、彼はその主張を一歩も譲ろうとはしなかった。 悠莉には彼の頑なな考えがどうしても理解できない。 確かにジョージから総裁の座を引き継いだ当初はビンガム家の名義や財産等の問題もあったために、悠莉の助力が必要だった時期もある。だが状況が落ち着いた今ではそういった弊害も無くなり、彼女の名がなくとも問題はないはずだ。 しかしそれでも彼は頑として離婚に同意しなかった。 こうして両者の主張の折衷案として出されたのが、悠莉が本国を離れ日本に居住地を移すことを認める代わりに、このまま婚姻関係を維持するというものだったのだ。 この件にはクレイグの母、クラウディアまでもが悠莉の説得に乗り出してきたこともあり、彼女も勝手を押し切る強硬手段に出られなかった。結果として悠莉はその条件を飲むことでしか、自分の希望を叶えることができなくなったというのが実際のところだ。 手続きが始まったというアナウンスが聞こえ、彼女がソファーから立ち上がる。今日は珍しくボディガードを遠ざけていて、悠莉は誰に阻まれることもなくクレイグと並んで出発ロビーへと向かった。 そしていよいよゲートに向かって歩き出そうとする彼女の腕をクレイグは強く掴んで引き戻した。 「ちょ、ちょっと一体何を……」 バランスを崩した悠莉を腕の中に抱き込むと、彼は息もできないような深い口づけを落とす。そして念を押すように耳元でこう告げたのだ。 「忘れるな。君の居場所は常にここにある。だから、いつでも戻ってくればいいんだ」と。 ビジネスクラスの席に座り、前の座席の背を見つめたままで、悠莉は飛行機が離陸するのをただじっと待っていた。 飛び立つ瞬間を見送らないでほしい。 別れる間際にそう言っておいたが、多分彼はこの空港のどこからか自分が乗っているこの飛行機を見ているような気がする。 離陸時にシェードを下ろせない状況では、たまたま席が窓際でなかったことがありがたい。でないと外を見て、無意識に彼の姿を探してしまいそうだった。 しばらくすると機内にアナウンスが流れ、シートベルト着用のサインが点灯する。機体が動き始めたのを感じた悠莉は、背もたれに体を預けてそっと目を閉じた。 ゆっくりと滑走路に入った飛行機のエンジンが突然、ひときわ大きく唸る。機体が加速していくにつれて体が後ろに引き戻され、やがて衝撃と共に巨大な鉄の鳥が空へと飛び出していくのを感じた。 終わった。これで何もかもが……終わったんだ。 2年前にこの国に来た時、まさか自分がこんなに長逗留することになるとは夢にも思っていなかった。 そしてこんな風に、誰かに別れを惜しまれながら旅立つことになるとも。 「ふっ」 悠莉は徐に顔を伏せ、手で覆った。 何故だかわからないが無性に切なく、辛さが込み上げてくる。 帰りたいと願ったのは自分なのに、やっとその希望が叶えられたというのに、何でこんなに心が乱れるのか。 自分ではどうしようもないこの感情を持て余しながら、彼女は喉の奥から無理矢理絞り出したような掠れた声で小さく笑った。 ビンガムの束縛から解放されて帰国が現実となり、もっと喜びで一杯でもおかしくないのに、なぜ自分はこんな風に惨めな気持ちを味わっているのだろう。 どうして? 目を閉じれば彼女の姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くし、じっとこちらを見ていたクレイグの姿が脳裏を過る。 おかしなものであれほど帰国を望んだというのに、その嬉しさよりも彼との別離の苦しさの方が大きく心を占めていた。 寂しい?そんなこと、ありえないじゃない? ここに来るまでは、なんでも自分一人ですることが普通だった。他人に縋っても後で裏切られるだけだ。そう思って肩肘張って生きてきた彼女は、人に頼る術さえ知らなかったのだ。 だが、彼が側にいることに慣れてしまった今では、そこにあったはずの支えを突然無くしてしまったことがこんなにも心細く感じてしまう。 決して自分の気持ちが弱くなったわけではない。そんなはずはないといくら強がってみても、空虚な心は言葉を返してはくれない。 自分たちは最後の最後まで互いの胸の内を明かすことができなかった。それもあってか世間一般の夫婦の在り方とはかけ離れていた二人だったが、それでもパートナーとして過ごした時間は決して悪いものではなかったと思う。 この世の中のすべての男女が、強烈な感情で繋がっているというわけではない。 側にいるだけで、その存在が互いを支えあっている者だっているはずだ。 人はそれらの間に存在するものを大雑把に包括して「愛」と呼び、時に便宜的に共にある理由づけとして用いる。 ならばクレイグとの関係の中に生じた感情を「愛」と呼んでも構わないのだろうか。 悠莉は目を開けると、隣りの席越しの窓の向こうに広がる空と雲を見つめた。 ああ、そうか、どんな形であれ、私は彼を愛していたんだ。 今更そんなことに気付いたことがおかしくて、彼女はまた掠れた声で笑った。ただ、今度は無理やりではなく、自らの愚かさを皮肉った苦い笑いだった。 HOME |