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True Colors  39


「あら、どうしたのよこんな時間に」
夕方のまだ早い時刻。
自室のノックに返事を返した彼女は、開いたドアから入って来た人影をみて思わず眉を顰めた。
「たまには早く帰って奥様の相手をしようかと思ってね」
それを聞いた悠莉はふふんと小さく笑った。
「それは殊勝な心がけだこと。だったらあなたの分の食事も追加するように言っておかないといけないわね」
「いや。今日は外で食べよう。出掛けられるように用意してくれ」
「でも、せっかく夕食を準備してくれているのに……」
「家政婦に今夜の食事はキャンセルするよう言っておいたから、ここにいても何も出て来ないぞ」
クレイグはそう言い置くとさっさと部屋から出て行ってしまった。
「もう、相変わらず強引で勝手なんだから」
悠莉はぶつぶつ言いながらもクローゼットの扉を開け、吊り下げられたドレスの中からドレッシーだが着やすいものを選び手に取った。

二人が便宜上の結婚をしてから一年あまりが過ぎた。
最初はギスギスとした結婚生活だったが、今ではその状況にも少しずつ変化がみられている。
「ミセス・バートン」として彼女は積極的にチャリティ活動やイベントに顔を出し、あれだけ嫌がっていたパーティーにも夫婦同伴で出かけるようになった。
今やビンガムグループを率いているのはビンガム家の娘、悠莉の夫であるクレイグだという印象は世間に完全に定着し、彼はその家名を持たずして「ビンガムの総帥」という確固たる地位を手に入れつつあった。

悠莉も根っからの馬鹿ではない。ある程度時間を置いて周囲の反応を見定めた上で自身に何を求められているのか、そして何をすれば一番自分やクレイグに有利に働くかを考えた末に、彼女は一つの決断をした。
それは、クレイグの立場を堅固なものにするために、反目を封印して出来る限り夫のサポートをするということだった。
彼自身の名でグループ内の基盤を盤石なものにすることができれば、その時点で添え物としての自分の役目は終わる。この窮屈な生活から解放されるためには、自身の権限をすべてクレイグに委譲する前に、目に見えないパワーバランスを徐々に彼の方に重きを置くように傾けていく必要があることに気付いたのだ。
今のところその目論みはまんまと当たり、クレイグは既に父、ジョージが実権を握っていた当時に匹敵する影響力を身に着けている。ただ、これから先のことを考えると、彼女としては反主流として未だクレイグのやり方に異議を唱える一派をできるだけ排除し、可能な限り将来の懸念を取り除いておきたいと考えていた。

自分がここからいなくなっても、変わらず彼がこの帝国を率いていくことができるように。

最初から自身がここに留まるという選択肢は彼女の中にない。
こういう生活が性に合わないこともあるが、何より自分がここにいるということ自体が不自然に思えて仕方がないのだ。
膝丈のドレスに着替え、ドレッサーの前に立った悠莉は鏡に写る自分の姿に思わず苦笑いを浮かべる。
染めるチャンスを逸したままのはしばみ色の髪の毛は、今では肩の上あたりまで伸びた。長い間抱いていたこの髪色に対する嫌悪感はとうになくなり、今ではこの色もすっかり馴染んでしまった。メガネで隠す必要がなくなった、緑がかった茶の瞳の色も同様だ。
最初はビンガム家の者に多いこの髪や目の色を外に印象付けるという目的でわざとそのままにしていた。当時は違和感もあったが慣れてしまえばなんてことはない。自分がああまでして拘っていたものはこの程度のものだったのか、と思うとつい自嘲してしまう。
日本にいた頃はあんなに嫌だった、「ガイジン」のような容姿もここでは普通、むしろ完璧な日系、アジア系でない分人ごみに紛れると目立たなくなるくらいだ。
ただ、どんなに表面を繕い装っていてもやはり彼女の根本は日本人で、しかものんびりとした田舎育ちの人間だ。
時々英語の会話が嫌にもなるし、黒目黒髪の集団の中が恋しいと思うこともある。田んぼ中を抜ける農道を自転車で走るのどかさや、あちこち隙間風が吹き込む古い農家造りの家が懐かしく思えることもある。
何よりこの街は、暮らすには刺激と緊張が多すぎる。
ここは世界有数のビジネス街。国内外の経済を統べる中心地のひとつであり、クレイグがビンガムの中枢に座り、そのすべてを動かす場所でもある。
必然的に彼はここにいるべき人間であるが、彼女自身はそうではないのだ。

「ユーリ、準備はいいのか」
堅いビジネス用とはまた違った、少しドレッシーなスーツ姿に着替えたクレイグがドアの枠にもたれてこちらを見ていた。
「ええ。あとはこのチョーカーさえ着ければ終わり」
そう言って留め金をはめようとうなじに手を回すがクレイグに押さえられる。
「俺がしてあげよう」
金具がパチンとはまった感触の後、指先で軽くそのうなじを撫でられた悠莉は、くすぐったそうに体を捩りながら彼の二の腕を軽く叩く。
「もう、止めてよね」
悪びれずに笑うクレイグを睨みながらも差し出された腕に手を添えると、二人は並んで歩き出し、正面につけられた車に向かったのだった。



彼が予約していたのは、このあたりでも有名なシェフがいる人気のレストランだった。
車を降りると早速個室に案内された二人だが、中に入るまでの一瞬の隙に眩しいフラッシュがたかれた。どうやら入口の側にパパラッチが張り込んでいたようだ。
先日来、またしても夫婦の不仲説が流れたせいで、悠莉たちの動向はどうしても注目されてしまう。最初はプライバシーの侵害だとそれらに神経をとがらせていた彼女だったが、それも一年も経つとさすがに慣れて「ああ、またか」という感覚になるのだから恐ろしい。
「あーあもう、本当に懲りない連中よね」
「いっそサービスでディープなキスでも見せつけてやればよかったか」
クレイグの言葉に嫌そうな顔をしながらも、悠莉は半ば諦めたようにため息を零す。
「冗談は止めて。いくらなんでもそんなのがタブロイドの一面に出たら、恥ずかしくて外に出られなくなるわ」
「心配しなくても、君のそんな顔は誰にも見せないさ」
そして耳元でこう囁く。
「キスで蕩けた顔なんて、ベッドの中で俺だけが知っていればそれでいい、だろう?」
傍から見れば多分二人は楽しげに甘い言葉を囁きあっているように見えるのだろう。それもまた演出の内だ。
「アンタの発言って相変わらず節操がないわね」
呆れた表情で自分を見上げる悠莉にクレイグがにやりと笑った。
「それはどうも。お褒めただき光栄です、奥様」

食事を終え、再びクレイグと共に車に乗り込んだ悠莉は、ぼんやりと窓の外を流れる景色を眺めていた。
最高級の料理と共に最高級なシャンパンを口にしながら、彼女はなおもここでの自分が異質なものに感じられてならなかった。
本来の自分とはあまりにかけ離れた生活。これが現実だと分かっていても、どこか他人事のように思えてならないなんて、笑えてしまう。
「今日はもう時間も遅いことだし、こっちのマンションに泊まろうか」
「そうね」
彼らを乗せた車は、クレイグのマンションへと向かう。
そこは彼女がこちらに来て最初に過ごした場所、そしてあの出来事の後で、二人が初めて結ばれた場所でもあった。




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