クレイグは上げた視線を窓の外に巡らせる。 そして考え込むような、そして何かを思い出すような仕草で自分の顎を撫でると低い声で呟いた。 「多分、ジョージもすべてが終わった後で分かったんじゃないかな。君の母親の身に起きたことは」 「ならどうして、彼は母を探し出してくれなかったのかしら」 莉紗子の方から連絡を取るのは容易い事ではなかっただろう。 25年以上前となると、通信の手段は限られていた。当時はまだパソコンが今ほど普及しておらずメールなどを使っている人間はあまり多くなかったし、携帯も庶民には高根の花で、一人が一台などという時代ではなかったからだ。 そう考えれば、身を潜めながら生活する若い女性がそんなものをおいそれと持てるはずもない。 たとえ国際電話を使っても企業のトップにおいそれと繋いでもらえるものではないだろうし、手紙だって同じように取り次いでもらえるかどうかも分からない。仮に彼女がジョージの私的な連絡先を知っていたとしても、ほとんどプライベートな時間がなかったジョージは自宅等ではなかなかつかまらなかったのかもしれない。 それに下手に彼と接点を持とうとすれば、そこから追っ手にこちらの居場所を突き止められる危険性もあったとしたら…… 総帥に就任当時、ジョージはなかなか固まらない新体制を維持するのに苦慮していた。私的な時間などほとんどなく、ひたすらグループの維持に忙殺される毎日だったという。 ともすれば反旗を翻そうとする輩を抑え込み、時には懐柔し、また時には切り捨てる。そんな彼と反対勢力の間を取り持ったのがクレイグの母方の祖父だった。 祖父はすでに権力の座からは退いていたものの、新旧両方の勢力に顔が利いた。そこで対立する両者の間に入り、その調整役を担ったのだ。 当面の後ろ盾を得る目的でクレイグの母、クラウディアと結婚したのもそのためだと言われている。 息子の目から見ていても、恐らく二人の間には恋愛感情はなかったように思う。 ただ、継父と母は長年パートナーとして互いを尊重してきたことは傍から見てもよく分かったし、両者とも相手以上に共に生きたいと思う異性が現れなかったせいでその関係をずっと継続してきたのだろうとクレイグは推測していた。 仮にもし、莉紗子という女性が表舞台に登場していたとしたら、この夫婦の今は違う形になっていたのかもしれないが、今となってはそれは「たられば」の話にしかならない。 「ジョージは君の母親のことをずっと探していたさ。ただ、障害になるものが多すぎただけだ」 そして、その後も彼が莉紗子を探し出せなかった最大の原因は、やはり何某かの妨害工作のせいであった可能性が高い。 一度撤退を余儀なくされ、日本での足がかりを失った状態では、多忙なジョージはそちらにかかりきりにはなれなかっただろう。そしてビンガムが再度子会社を展開したのは数年後で、それと相前後して莉紗子が亡くなっている。 あと少しで彼の手が届くはずだった女性は、それを待たずしてこの世を去ってしまったのだ。 こうして「存在しない」子供である悠莉は、母親に死なれ、父親には認知されないまま一人置き去りにされた。 「皮肉な話よね。もしそんなことが起こらなければ、私は一人ぼっちにならなくても済んだ。けどそうしたらクラウディアとジョージは結婚生活を維持しなかった可能性は高いし、多分あなたはビンガムの後継者としてジョージの目に留まることもなかったでしょうね」 それを聞いたクレイグが肩を竦めて「多分ね」と苦笑いした。 「それと、ロバートは最後まで日本に戻りたがっていたそうだ。すべてを失った後も、何とかして渡りをつけようとはしていたらしい。彼は彼なりに、君の母親を愛していたのだとしたら、諦められなかったのかもしれないな。ただ、その手段を間違えただけで」 そのわけを、そして思いを知っていたからこそ、ジョージは弟の死後、敢えて彼の犯した不始末に目をつぶり、黙ってそれらを片づけた。その行き場のない、抑えた怒りの表れが亡くなった弟に対する非情なまでの対処。そう考えるのが妥当だろう。 「しかし、母さんもよく逃げ延びたわよね。いくらお金を持っていたからといっても、私を抱えてたった一人、あの大都会の中で」 仮定の話だが、もしも莉紗子がジョージより先にサンドラに見つけられていたら、当時の情勢から考えて存在を消されていた可能性を否定できない。ましてや彼女がビンガムの血筋の子供を産んでいたとなれば、それが兄弟どちらの子であっても存在自体が邪魔になる。 ジョージの子供となれば次のビンガムの総帥の地位を手にする可能性があり、そうなれば彼女たち一派はますます権力の座から遠ざかってしまう。かといって、どこの馬の骨とも分からない女が産んだ子供がロバートの子であるなどとは気位の高いサンドラは死んでも認めたくなかったというのが本音だろう。 自分の母親が出生届を出さなかったのも、それが理由ではないかと悠莉は思っている。 悠莉は母親の死後、半年近く経って祖父が名乗り出るまで自分が誰なのかさえ分からなかった。母親の名も知っているものと警察や施設の人から聞かされたものは違ったし、他に身内がいることさえ教えられなかったからだ。 結局彼女はすでに死亡している母親の子供としてではなく、後に祖父の戸籍に名を組み込まれることになる。 もしも早い時点で身元が判明していたとしたら、ビンガム側も彼女の存在に気が付いたのかもしれないが、そのタイムラグのお蔭で彼女は追跡の目を掻い潜ることができたのかもしれなかった。 そして母親が彼女に英語を覚えさせた理由は、何かあった時にジョージと直接コミュニケーションを取るのに不自由がないように。よしんば自分がアクシデントに遭遇して娘が一人きりになったとしても、身元が簡単に割れないようにという思いがあったのかもしれない。 それらも今となってはちぐはぐなものにしか見えないが、当時母親が置かれていた状況ではそれが一杯一杯の対応だったのではなかろうか。 母も悠莉が絶対にジョージの子供だという確証があれば、危険を冒してでも保護を求めて名乗りを上げたかもしれない。しかし、父親がどちらの男性か定かではない状態の中では、自分たちの身を危険に晒してまでそれをすることを躊躇ったのだと思う。 「明かされてしまえば、真実は虚しいものね」 もう少し時代が違っていたならば、こんなに歪に拗れたものではない、この関係にももっと違う展開があったのかもしれない。母親も自分も、ジョージやロバートだって他の生き方を選ぶことができたかもしれないのだ。 それきり、車内に沈黙が落ちる。 彼女の呟きに答えることなくクレイグは静かに書類に目を落とし、悠莉もまた窓の外に目を遣りぼんやりと遠くを見ていたのだった。 HOME |