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True Colors  30


悠莉がジョージの実子と確定した頃と時期を同じくして、クレイグを頂点としたビンガムグループの新体制作りが一気に加速していった。
一族外から初めてのトップ就任。
血縁という柵に囚われない彼は大胆な人事の刷新を行い、先代の総帥、ジョージの側近や古くは先々代の頃からいた役員たちの中からも使えない人材は次々と閑職に追いやり、または切り捨てていく。
こうして煩雑な手続きを一手に担う立場となった彼を取り巻く環境は更に厳しくなったらしい。出張が増え、一日刻みで国内外を行き来していることもあるし、前にも増して仕事に追われる日々が続いているようだ。
結果、屋敷に戻らない日も多くなり、必然的に悠莉が一人でいる時間が増えた。

夫は放任主義、自由な時間はいくらでもある。金は自分の銀行口座に唸るほど入っていて使いたい放題。その上ビンガムの名を通せば、世間では予約不可能と言われる場所さえも大概はごり押し可能とくれば、有閑マダムを気取って勝手我侭し放題。
「なんだけどなぁ……」
悠莉は自室のベッドの上でごろごろしながらため息をついた。
貧乏とまでは思わなかったが、長年祖父と共に質素な暮らしをしてきた彼女は、もとから倹しい生活が身についている。そのせいか、急に大金を持たされてもその使い道に困った。
何せ、部屋のクローゼットにはこのまま一人では絶対に全部着られないであろうというくらい服が揃えられているし、普段はあまり使わない化粧品の類も残り少なくなればすぐに補充されていく。
アクセサリーは基本的にマリッジリング以外を身に着けない彼女は宝飾品に現を抜かす趣味もない。
かと言って美食家というくらい味に煩いことを言うほど舌が肥えてるわけではないので、そちらにも投資する場所がないのが現状だ。
「だってねぇ、キャビアとかフォアグラとか言われても美味しくないんだもん」
同じ魚卵ならイクラの方がまだ口に合う。もっと言えば白いご飯に明太子。そう考えれば、卵でなくとも普通の鮭をただ焼いてくれた方が食欲もわくというものだ。
「元が庶民なんだから仕方がないわよ」
彼女がそれを言い出せないのは、自分の食事を準備しているのが高級ホテルの調理場を預かっても不思議ではないという一流シェフだからだ。
かのお抱えシェフがいつも悠莉の好みに合う食事を作るよう心を砕いているのを知っている。その彼に向かって「今夜はシャケのフレークの入ったおにぎりと納豆と味噌汁がいい」などと言えるわけがない。あとはカップラーメンやカレーライスが食べたいとかも。
いくらクレイグのいない一人ディナーとはいえ、そこまでジャンクなものを、この家のゴージャスな食卓に置くことは許されないだろう。
シェフを後ろに従えて、ダイニングの長テーブルの端でカップめんを啜る自分を想像するとシニカルな笑いがこみ上げてくる。
それはまるでギャグマンガの世界だ。

「ああ、帰りたいな、日本に」
毎月微々たる給料を貰い、口座の残高を心配しながら暮らしていた頃が懐かしい。あれはまだ、たったの数か月前のことだというのに。
以前はテレビなどで垣間見るセレブの女性たちの買い物や豪遊を「あんなことを平気でするなんて、感覚がおかしいなぁ」などと思っていたが、いざ自分がそうなってみて初めて分かったことがある。
それは、彼女たちは無駄遣いをする暇があるのではなく、なにもすることがなさすぎて無駄遣いくらいしか時間を潰せることを思いつかないのだ、ということだ。
「何てばかばかしくて不毛な世界」
しかしだからといって実際のところ、悠莉ができることでここで何かの意義を見出せるものはほとんど何もないといってよい。
名義上オーナーとなっている会社も実際の経営は他人任せになっていて、彼女はその地位故に利益を享受しているに過ぎない。
寄付先の慈善事業にだってただ金をバラ撒けばよいというものではない。その前に審査すべきことが結構あって、運営が正しく使われているかどうかを見極める必要があることも理解できるようになったが、それを自らの手でするのは、専門知識のない彼女のレベルでは難しい。
自らを「優れている」などと驕る気持ちは毛頭ないが、それでも今まで人並みのことはやってきたつもりの彼女は、自分にできることが何もないという己の無力感に苛まれた。

それにひきかえクレイグは休みを取る暇もないくらい多忙な日々を過ごしている。彼女と結婚以来続けていた朝食を一緒に取ることさえ、今の彼にはその時間繰りが難くなっているのだ。
一昨日の深夜、一週間ぶりに屋敷に帰ってきた彼は、自室でシャワーを浴びるとそのまま悠莉のベッドに潜り込んできた。
「ちょっと、何であなたがここに来るのよ」
まだ眠ってはいなかったが、自分が横になっていたベッドに押し入ってきたクレイグに、ただ驚いた。
「たまにはね。こうでもしないと君とは顔を合わせる機会も作れない」
「だからって、わざわざ私のベッドに寝に来る?」
「ん?ただ寝るのが嫌なら他に楽しみ方はいくらでもあるが」
「冗談言わないで、んっ」
もう一言文句を言おうとした悠莉をベッドに押し付けると、彼は強引に唇を重ねてきた。
「別に構わないだろう。俺たちが寝室で何をしようと、誰も文句は言わないさ」
驚きに体を強張らせた悠莉が肩を押し返すと、クレイグは思った以上に簡単に彼女の横に倒れ込み、そのまま目を閉じる。
「えっ?」
「おやすみ。ユーリ」
それからほんの一、二分で緩やかな寝息を立て始めたクレイグに悠莉は唖然とした。
「ちょっと、もう。本当にここで寝るつもり?」
鼻を摘まんだり頬を軽く抓ったりしてみるが、彼はぐっすりと寝入り目を覚ます気配がまったくない。ただ回された腕だけは緩むことなく、彼女の腰に絡みついたままだ。
「本当に疲れているのね」
白く輝く色の薄いブロンドに、今は閉じられた紺碧の瞳。女性ならば誰もが振り返るくらい整った顔立ちが無防備に彼女の目の前に晒されている。
そんな男が自分の夫だなんて。
彼の額にかかった前髪を後ろに撫で付けると、悠莉は柄にもなくちょっと優しい気持ちになった。

決して嫌いなわけじゃない。
ただ、これ以上彼と深いつながりを持つことに躊躇いを覚えるだけだ。

出会いこそ最悪だったが、それは互いの思惑が違うのだから仕方がないことだった。彼は彼なりにジョージという継父を思いその意思に添うように動いただけ。クレイグがしてきたことは、自分という最後の瞬間まで父親を受け入れることができなかった不肖の娘の負うべき重荷を肩代わりしてくれたに過ぎない。
「でもね、私はあなたと慣れ合うことはできないのよ」
恐らくクレイグは、少年時代から将来ビンガムのトップに立つべき人間と目されてきたのだろう。もちろんそれに異を唱える者も少なからずいたと思うが、長じて彼はジョージの片腕となることで、それらを実力で抑え込んできたことは想像に難くない。
今彼がこの地位にあるのは、彼自身が自分を磨き高め、そのポジションを掴みとったからに他ならない。
帝国の頂点に就くべくして就いた選ばれた男。
だからこそ、悠莉は彼をどう扱ってよいのか迷ってしまう。
ビンガムという家が背負う深すぎる業を暴くことが、彼女が自身に課した使命であるならば、次期当主としてその家と一族を守る役目を仰せつかった彼とは決して相いれないものとなるのだから。


そして彼は今、再び海外に出ている。
予定では今頃は南半球のどこかの国に滞在しているはずだ。
悠莉は遂に染め直す機会を持てなかった、はしばみ色の自分の髪を指先で弄びながら、母親の遺した日記を読み返していた。
誰かに読まれることを警戒したのか、ところどころに英語の表記や意味のない事柄を挟み込み、わざとストレートに書いてはいない。
だが、少しずつそれらを読み解いていくと、母が何を恐れていたのかがおぼろげながら感じ取れた。
「何てことを」
ふっと息を吐きながら、日記を閉じる。
エサはすでに撒いておいた。
本当にそんな安易な罠にかかるものかどうかは彼女にも分からないが、できることが他にないのだからあとは相手がそれに引っかかることを祈るしかない。

ノックの音と共に、ドアの向こうから呼びかけられる。
「奥様?」
「どうぞ入っていいわよ」
部屋に入って来たのは、電話を持った家政婦だった。
「お電話ですが」
「ありがとう」
悠莉が電話を受け取ると家政婦は軽く頭を下げてから部屋を後にする。
「はい」
電話の相手の名を聞き、彼女は一瞬怪訝そうな顔をする。
「はい。ええ、そうですか……そちらに伺えばよいのですね。分かりました」
電話を切った後、悠莉は外出中の越智に連絡を入れる。
「そうですか、すぐにボディガードを手配いたします」
「あまり大げさにしないでいいわ」
「しかし相手が相手ですからね。念には念を入れておいて間違いはないでしょう」
越智にそこまで言わせる相手だが、悠莉には直接の面識がない。そのせいか、彼の言う「念入り」の意味もはっきりとしないが、それでも警戒に値する立場にある人物なのだろうと推測する。
「それではお任せします。私は自分の準備をするから」
「かしこまりました。私も急ぎ手配いたします」
高が遠縁の親族一人にそこまで神経をとがらせる必要があるのかどうかは分からない。ただ、所有する会社についての話と言われれば、彼女としては会って話をしなければと思うのはやむを得ないことだ。
「しかし、何の話かしら?」
あまり込み入ったことでなければよいのだけれど。
そんなことを考えながら、ラフ過ぎない格好に着替えた彼女は迎えの車の到着を待つ。
その後、越智から連絡を受けたボディガード2名と悠莉を乗せた車が屋敷を出たのはそれから約1時間後のことだった。




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