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True Colors  3


「東京……ですか?」
訳が分からずおうむ返しに訊き返した彼女に、社長の甥は滑稽なほど重々しく頷いた。
「実は、こちらの方が……ウチの取引先の親会社の方なんだが、東京にある支店を拡充したいとおっしゃっていてね。そこに是非ウチからも駐在の人間をと言われて。君なら大学はあちらだったみたいだし、適任だということになった。待遇はかなり良いし給料も上がる。もちろん住む場所なんかもちゃんと準備して下さるそうだし……」
悠莉は慌ててその話を遮った。
「ちょ、ちょっと待って下さい。そんなことを急に言われても、私はここの社員といっても組み立てラインにいる工員なんですよ。駐在員なんて、事務的なことを一切したことがないのにどうして私が?」

彼女の言葉を聞いた社長と甥の二人は、困ったような表情で顔を見合わせた。
「それに私、ずっとこっちに住むつもりで引き上げて来て、働き口を探したんです。それを何で今さらまた東京に逆戻りしなければいけないんですか?転勤?契約書にそんなことは一切書かれていなかったはずです」
「しかしだね、片岡君、こんな良い話は滅多にないぞ」
揉み手をしそうな勢いで話を勧めようとする社長を、悠莉は冷めた目で見つめた。
「ならばもっとほかの方に譲って差し上げてください、私なんかじゃなくて。そんなに良い条件でしたら、他の人ならすぐに承諾してくれるでしょう。とにかく、私はここから動くつもりはありませんから、この件はお断りします。お話がそれだけでしたら、午後の仕事が始まるのでこれで失礼します」
そう言うと悠莉は勢いよく立ち上がり一礼した。そしてその拍子にずり落ちかけたメガネを指で押さえながらドアの方へと向かう。
「かっ、片岡君」
「まだ何か?」
もう振り返る気にもならなくて、肩越しにちらりと目を遣ると、社長とその甥が青ざめた顔でこちらを見ていた。
「その……どうしても無理なのか」
大の大人の男二人が縋りつくような目をしているのを見た彼女はぞっとした。
自分ごときのことで、何で彼らはそんな必死になっているのか。そう考えると得体のしれない気味悪さを感じた。
「無理です。もしそれがお気に召さないということであれば、クビにするなり何なりとご自由にしていただいても結構ですから」

悠莉は社長室を出ると、後ろを振り返りもせず工場に戻った。
休憩室の時計の針はすでに1時5分前を指していて、これからどう頑張ってもお弁当を食べる時間の余裕はない。仕方なく、彼女はカバンに入れていた携帯食のクッキーを一袋取り出し、それをお茶で流し込んで一時の空腹をしのぐことにした。

そういえば、あの男の人、まったくしゃべらなかったな。

もそもそしたクッキーを頬張りながら、ふと思い出した先ほどの様子に、悠莉は思わず首を傾げた。
あの場で彼女に話しかけたのは社長とその甥だけ。二人のすぐ側に座っていたというのに、男性は一言も口を挟もうとはしなかった。自分が持って来た事案であろうに、なぜかこちらを観察するような目で見ているだけだった。

大体、あれはどこの誰だったんだろう?

直接紹介されなかったので名前はおろかどこの会社の人で、どんな仕事をしているのかさえ定かでない。ただ取引先の関係といっても、この工場が納品している部品を使っている会社は結構多く、その元請けや親会社ともなると彼女ではまったく見当もつかない。
あまりにも突拍子もないこの話は、疑り深い人間でなくもとなにか裏があると感じくらい怪しい。自分は即座に断ったが、もしこんなことを他の人にもしているのであれば、この会社はこっそりと何かヤバいことをしているのではないかと勘繰ってしまうのは当然のことだろう。
この不況のご時世、相手の会社もいくら自分の都合で人を招集するからといって下請けの、そのまた取引先の社員にまで社宅を斡旋してくれるほどの余裕と温情があるとは思えなかった。



翌日、悠莉は一晩考えた末に退職願を作り、工場の責任者に手渡した。
危険を察知した自分の勘が、すぐにここから離れた方が良いと彼女に警告したからだ。この工場に就職してから約1年半。その間にはなかった異変を彼女は本能的に感じ取っていた。
こんな寂れた町でも、探せば他にも働き口はある。
たとえパートにしかなれなくても、身に危険を感じながら働き続けるほど、今の職場に未練はない。

だが、どういうわけかその日のうちに再び事務所に呼び出された彼女は、これまた不思議なことに、社長直々に強く慰留された。
「そんなに慌てて辞めるなんて言い出さなくても」
昨日と同じ社長室で、なぜか来客のようにお茶まで出されての面談。
平素は社員など使い捨てと言って憚らない社長の、それもたかが一工員に対する態度にしては、あまりにも低姿勢の話し合いだ。
余計に疑心暗鬼になり何も答えないでいると、最後には給料のアップまで提示してきた社長の真意は測りかねた。
「そこまではしていただかなくても結構です。分かりました。とりあえず、今の契約期間が残っている間は勤めさせていただきます」
そう言うと、社長は見るからにほっとした様子で意味もなく彼女の肩をばんばんと叩いた。
「おお、そ、そうか。君にはいろいろと期待している。頑張ってくれ」

訳も分からずとにかくその場を辞すると、悠莉は社長室の前の廊下で首を捻った。
1年以上も前からここにいるというのに、今さら何を期待するというのか。それも現場の下っ端工員に。


それからしばらくは直接会社側から何かを働きかけてくるようなことはなかった。しかし、なぜか、工場長や同僚の工員たち、それに事務員たちまでも、彼女に対する態度が一変した。
ある者は以前にも増して余所余所しくなったし、またある者は必要以上に彼女に構い、馴れ馴れしく接してきた。どうやら例の件がどこかで漏れたのがその原因のようだが、雇用主にあまりにも丁寧な扱いをされるとかえって居心地が悪くなるし、逆にそれ自体が無用な反発を招いてしまうこともある。
とりあえず、今までと同じようにできるだけ周りとは関わり合いを持たないように心掛けたが、彼女を取り巻く環境は一向に良い方へと向かう気配がなかった。

これは本気で仕事を辞めた方がいいのかもしれない。
悠莉がそんな風に考えるようになったある日の夜、突然彼女の自宅に来客があった。
「どなたですか?」
玄関のチャイムが鳴るのを聞いた悠莉は、モニターのないインターホンで応答する。こんな夜分に予めの連絡もなく彼女を訪ねてくるものなど、思い当らなかったからだ。
「こちらは片岡悠莉さんのお宅ですね」
「……そうですが」
「先日失礼いたしました。私は越智と申します。今日は折り入ってお願いとお話が合って参りました」
「は?越智さん?」
何のことかピンとこなかった彼女だったが、少なくとも勧誘や訪問販売の類ではなさそうだ。しかし、女一人住まいの家にこんな時刻に男性が訪れるとは、常識がない行動だとしか思えない。
「あの、今日のところはお引き取りください。明日にでも、もっと早い時間なら応対させていただきますから」
「それが、ちょっと我々も時間が押していましてね。できれば今夜のうちに用件を済ませてしまいたいので」
インターホン越しに軽く押し問答をしていたが、こうしている間にもどんどん時間が過ぎて増々遅くなってしまう。相手も簡単にあきらめる気配がないことから、悠莉は仕方なくチェーンを掛けたままドアの鍵を開いた。
「ですから、こんな夜遅くなって来られても困るんですけど」
外からやっと顔半分が見えるくらい、薄く開いた扉の向こう。
そこにあったのは、あの時社長たちの側にいた例の男性の姿だった。




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