「でも、どうして彼をミスター・ビンガムに?」 「話せば長くなるけれど」 クラウディアはそう言うと持っていたカップを置いて小さく微笑んだ。 「あなたはビンガム家が保有する会社の……グループの正式名称をご存知?」 「ええ。M&B、マクレーン・アンド・ビンガムでしたっけ?」 「そう、元々この会社はビンガムとマクレーンという二人の炭鉱経営者が興したものなの」 やがて採掘対象が油井に代わるにつれて飛躍的に大きくなっていった会社は、国内でも有数のオイルメジャーと呼ばれるようになり、石油の需要が高まると共に彼らに莫大な富と権力をもたらした。 「私の実家は、その『マクレーン』の家系で、父は生前M&Bの関連会社を任されていたわ。その関係でジョージとも幼い頃から知り合いだった」 ジョージとクラウディアには8歳の年齢差がある。縁組として難しいほどではないが、そう言った話はまったく出なかった。当時、彼女の父親がグループの中でそれほど力を持っていなかったことと、ビンガムの台頭でマクレーンが次第に勢力を失いつつあったことが原因だ。 マクレーン側の株式保有率はジョージの父親の代ですでに35%を割り込み、独自事業の資金繰りの悪化で全株式を手放すのは時間の問題と思われていた。それゆえ、何かあった場合を考えても、必要以上に密な関係を作ることは好ましくないという打算がビンガム側にあったのだろう。 「そして私はクレイグの父親と出会い、結婚したの。ジョージはそろそろ30代に入ろうかという年齢だったけれど、まだ当分は身を固める気はなかったみたい。その頃にはもうジョージの女性関係の派手さはこちらの社交界でかなり有名だったのよ」 クライディアは何か思い出したように笑った。 「ジョージみたいにいつも女優やモデルのような美女を侍らせている男性は、私のような小娘は視界に入らなかったんでしょうね。私もあんな女たらしは願い下げだって思ったし」 しかしクラウディアの結婚生活も長くは続かなかった。 最初の夫、クレイグの父親は彼女の親の援助を受けて事業を起こしては失敗を繰り返した。ただでさえ体力のなくなっていたクラウディアの実家は次第に傾き始め、それと共に夫婦仲も冷えていったのだ。 そしてついに彼女は離婚を決意し、息子を連れて家を出た。 「それからすぐだったわね。彼が急死したのは」 死因はアルコールとドラッグ。 仕事も家族も失った彼は、自らを破滅へと追い込んだのだ。 だが、クラウディア自身も安穏としてはいられなかった。 夫が作った負債が回りまわって彼女と彼女の実家に圧し掛かって来たからだ。 すべての財産を処分して弁済にあてたが、それでも足りない分が借金として残った。 それはもはや個人で返せるような金額ではなく、途方に暮れた彼女に援助の手を差し伸べたのがジョージだ。 当時の彼は前年に死亡した父親の遺産を巡る相続争いの真っただ中にいた。彼がグループのトップに就任するために必要となる役員の同意を数多く得るために、彼女の家と名前は有益だったのだ。 彼はクラウディアに感情に左右されない、契約上の結婚という取引を持ちかけた。もちろん、時期が来たら、もしくは互いに好きな相手ができた時には合意の上で別れることも予定のうちだった。 「私一人だったら、そんな話にはのらなかったかもしれない。でも私にはクレイグがいたから……息子だけは何としても真っ当に育てなければという気持ちが強かったのね。私自身には、もうあの子に与えてやれるものは何も残っていなかったから」 悩んだ末に、クラウディアはその話を受けた。 もし息子になにか悪い影響があればすぐにでも彼の元を去る覚悟で、ビンガム家に入った彼女だが、なぜかジョージは思いのほかクレイグに目を掛け、可愛がったし息子も新しい父親に馴染んだように見えた。 彼自身がどうして自分の子供を持つことを考えなかったのかは彼女にも分からない。ただ、クラウディアと結婚した時期からジョージの女性関係があまり表沙汰にならなくなったことだけは確かだった。 「多分、ジョージはずっとあなたのお母様を探していたんだと思うわ。でもどうしても行方を突き止めることができなかった。だから私たちはずるずると20年以上も夫婦を続けてきたのよ」 「すみません。母が……私たちがいたばかりに、あなたにご迷惑をかけてしまったみたいで」 それを聞いて気まずそうな顔をした悠莉を見たクラウディアは、慌てて首を振った。 「あなたたちのせいじゃないわ。私だって、本当に嫌だったら、とっくの昔に別れていると思うわよ」 「でも……」 クライディアはふっと笑うとテーブルの上にあった悠莉の手を握った。 「私とジョージは夫婦というより兄妹と言った方が正しいのかもしれない。彼はずっと私と息子の庇護者として守ってくれたし、私も彼に尽くせるだけ尽くしたわ。互いのしたことに後ろめたさや後悔は一切ないし、今でも私は間違ったことをしたは思わない」 そう言ってふっと唇の端を上げた彼女の表情が驚くほどクレイグのそれと似ていた。 「これは契約なの。あくまでも、個人対個人のビジネスだったのよ」 はっきりとそう言い切ったクラウディアに、悠莉は驚愕した。 殺伐とした経営の世界から一番縁遠そうな彼女の口から出た言葉が、ビジネスの帝国を統べる家系に生まれた者の宿命を表しているようだった。 何も言えなくて、呆然と自分を見つめる悠莉に、彼女は慈しみを込めた眼差しを向ける。 「でもね、だからといってあなたが同じようにする必要はないのよ。誰に何と言われても、あなたには自分の好きな道を歩む権利がある。常にそれだけは忘れないでいてね」 当面、相続の問題は棚上げとなり、悠莉は5日後に帰国することになった。 それまでにできるだけ必要な手続きを済ませてしまいたいというビンガム家側の要請で、彼女は連日外出を余儀なくされていた。 その間に受けたDNA鑑定の結果は間に合いそうにないが、彼女自身はそれにはあまり興味がなく、帰国後の結果資料の扱いはクレイグに一任することで合意している。 「はぁ」 「お疲れのご様子ですね」 ビンガムから回された車に乗り込んだ悠莉は、凝った肩を拳で叩いて首をくるっと回した。それを同乗した越智が気の毒そうに見ている。 「もういい加減、書類にサインするのを止めたいわ」 自分が英文を読めず、内容をいちいち和訳してもらわなければならないせいでサイン一つにやたらと時間を食う。自分にとって不利な取り決めをすることが不本意な彼女は、確かめずに盲判を押すこともできないのだからやむを得ない。とはいえ、長時間退屈な説明を聞き続けるのは苦痛だった。 「あ、ちょっとだけ車を停めてもらっていい?」 「どうかされましたか?」 「ううん、あそこ。あの建物の角にアイスクリーム屋さんがあるみたいなの。昨日見つけたんだけど。ちょっとだけ寄って買い物をしてもいいかしら?」 ちらりと時計を見た越智は時間の余裕を確認したどうだった。 「あまりゆっくりできませんが、よろしいですか?」 「大丈夫、買って持って帰るわ。黒服に囲まれてアイスクリーム食べるなんていやだから」 それを聞いた越智が苦笑いする。 「分かりました。ただ、店内まで私とボディガードがついて行きますよ。それだけはご了承下さい」 悠莉は数種類のカップアイスを買い、すぐに車に戻った。 「思ったよりも早かったですね」 彼女の買い物は単純明快、自分が欲しい物を迷わず買う。 「越智さんの分もあるのよ。ほら、抹茶アイス。そろそろ日本が恋しくなってきたんじゃないかと思って。私はもうすぐ帰るけど、越智さんはまだ分からないんでしょう?でもこんなところで和素材を見つけるなんて、ちょっとびっくり」 そう言って大きめの箱を掲げた悠莉を、彼は少し困ったような顔で見た。まだ彼女には告げていないが、数日後、帯同する形で彼も帰国する予定だ。だが、悠莉の帰国に対してクレイグがどう出るのか、彼にはまったくその後の予定が知らされていなかった。 「あんまりこのあたりを見て回る時間もなかったわね。観光に来たんじゃないから仕方がないけれど」 そう言って隣のシートの上に箱を置いた悠莉は、窓の外を流れる風景に目を遣った。 「またそのうち来られる機会があるかもしれませんよ」 それを聞いた彼女は心底嫌そうな顔をした。 「そんなことがないことを願うわ」 こうして手にアイスクリームの入ったケースを持ち、いつものように彼女はマンションの入り口で車を降りた。 「私は運転手と明日の打ち合わせをしてから上がります」 「急いでね。アイスクリームが溶けちゃうから」 ボディガードに先導され、悠莉が一歩踏み出したその時だった。 持っていた箱が何かに弾かれたように彼女の手から離れた。 「!?」 何が起きたのか、彼女が理解するより先に、斜め後ろにいた越智とボディガードが重なるようにして彼女の上に覆いかぶさる。 「な、何?」 男性二人の重みで潰された彼女が、訳が分からずやっとの思いで顔を上げ、もがきながら見たもの。 それはその場に流れるおびただしい血だまりの、真っ赤な色だった。 HOME |