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雪のミラージュ  9


「今日は蒸し暑くなりそうだな」
まだ梅雨明けしていないとはいえ、都会の日差しは十分に強い。
昨日までの雨が気温の上昇と共に蒸し暑さをもたらし、湿気が体に纏わりつくような感じさえする。

偶然の再会から3ヶ月。
季節は春から初夏へと変わっていった。
何度挑んでも、あの時から彼女の返事は変わらなかった。
どんなに完璧なデートをセッティングしても、彼女の口から色よい返事は返ってこないし、いくつも用意した高価なプレゼントは「他の似合う方に差し上げてください」と、ことごとく受け取りを拒まれる。
普通の女性が喜びそうなことは全てやってみるという、彼にしてみればかつてないほどの努力をしたにもかかわらず、真音は一向に首を縦に振る気配を見せなかった。
そのあまりに頑なな態度に苛立ち、懐柔できないなら、いっそのこと無理やり力ずくで組み敷いてしまおうか…そんな野蛮な妄想を何度も抱いては打ち消した。

そんな浅はかなことをしても彼女の心は手に入らない。

過去、女性にこれほど強く拒絶された経験はなかったし、脈のなさそうな女性を振り向かせようとやっきになったこともなかった彼は、正直なところこれ以上打つ手がなくて途方にくれていた。
真音は決して彼自身を拒んでいるわけではない。
それは何度も会ううちに確信できたことだった。
食事やドライブをしている時の二人の間には、この上なく心地よい和やかな時間がゆっくりと流れていく。
彼女はあまり自分から話をするタイプの女性ではないが、そのウイットに富んだ返事や時折見せる悪戯っぽい表情は、彼の心を虜にするに十分な魅力で溢れている。
しかし、ひと度彼が『恋人』という甘い雰囲気を作ろうとすると、途端に彼女は自分を守るかのように表情を硬くし、二人の間に目に見えない透明な壁を築く。そして全身で拒絶を表すのだ。
何度強く抱きしめても、彼女の手が彼の体に回されることはなかったし、甘えて身をゆだねてくることもない。一方的な抱擁の味気なさに耐え切れず力を緩めると、するりと彼の腕をすり抜けてしまう。
嫌われているわけではないようだが、求められているとも思えないという微妙な関係が今も続いている。
二人の間にある見えない壁を崩すタイミングが掴めないまま、時間と共に彼の苛立ちだけが募っていった。

それでも、最初こそなかなか馴染まず、彼に余所余所しい態度で接していた真音も、最近は二人の時間を過ごすことを楽しんでいるようだった。
お互いに、できるだけ自分の予定をやりくりして二人で過ごす時間を作ることは楽しみの一つになった。
その日、どんなに忙しくても、彼女の笑顔を見ればそれですべて帳消しにできた。
真音の笑顔を見ると無条件で穏やかな気分になり、今までどの女性と付き合っても感じたことのなかった心地よさに包まれる。

彼女はそこにいるだけで人を和ませる不思議なオーラを持っている。
優しげにふんわりと微笑む表情は子供のような無垢さとあどけなさを宿していて、最初に年を聞いた時にはとても自分よりも年上だとは信じられなかった。

童顔で小柄な彼女はどう見ても30そこそこにしか見えないが、実際は35歳。
両親はすでに亡くなっていて、家族は年の離れた妹が一人いるだけだという。
学生時代に海外で生活した経験があり、今はフリーランスで通訳や洋書の翻訳をしていること、3年ほど前に夫と死別して、現在は一人暮らしをしていることも少しずつ話してくれた。

彼女と付き合い始めて、嶺河の日常は劇的に変化した。
まず、休みをしっかりと取るようになった。
大きな仕事が一段落ついて、時間に余裕ができたことは事実だが、それよりも彼自身が彼女と過ごす時間を大切にしたいと思うようになったからだ。
(兄の大地ほどではないが)ここ数年、生活は仕事中心だった彼が、週末の金曜日ともなると定時を待ちかねたように仕事を終えて、待ち合わせに急ぐ姿は女性社員たちの噂話の格好のネタになっているらしい。
彼にしてみれば、これが本当に『恋人』の元に急ぐのなら何を言われようとかまわないところなのだが、いかんせん未だ真音との関係は流動的ではっきりしないままだ。
彼女が自分たちの関係を「男と女」として意識していることは、多分間違いない。
だが常に二人の間に一線を画す姿勢を緩めない彼女の態度は、取り付く島もなかった。
焦ってはいけないと、頭では分っている…つもりだ。
しかし、なかなか付き合いを深めるタイミングが掴めない。
互いに惹かれあっているのであれば、相手の全てを、身も心もすべてを欲し、自分のものにしたいと願うのは、当然の欲求だと思うのだが、真音にはそれが通じない。
いや、多分彼女は分かっているのに、わざと気付かないふりをしているのだ。
彼の飢えと乾きは癒されることなく、日々増すばかりだった。
真音と一緒にいるようになってから、他に付き合いのあった女性たちとの関係をすべて絶ったことで、彼の欲望はその捌け口を失っていた。
今の彼が求めるのは彼女だけだった。
しかし無理強いはできないし、したくない。彼女にも、自分が求めるのと同じように、心から彼を求めて欲しかった。


金曜日の夜、食事の約束をしていた嶺河は、先に用事を済ませた真音を迎えに待ち合わせの場所へと急いだ。
近くのパーキングに車を停め、車から降りた途端に熱気を帯びた空気に囲まれた。
蒸し暑さで息苦しいほどだ。少し歩いただけでも首筋に汗が流れ落ちる。
「今夜はまた雨になりそうだな」
嶺河は薄闇に包まれた星のない空を見上げて呟いた。

約束の場所に近付くと、人ごみの中に、真音の姿を探す。
彼女はすぐに見つかった。だがどうも様子がおかしい。
こちらに気付かない彼女に呼びかけようとしたが、ショーウインドウにもたれかかり、所在無げにぼうっとしているのを見て足早に側に近付いた。
立っているのがやっとという感じの真音は、彼の姿を見つけるとほっとしたような表情をしたが、その顔色は青白く目が潤んでいる。
「体調が悪そうだね」
心配そうな彼を安心させるように真音が少し微笑んだが、口元が歪み、顔にも生気が感じられなかった。
「う…ん、昼ごろから身体がだるくなって」
そっと額に手を当てるといつもより熱っぽさを感じる。
もともと食の細い彼女のことだ。この調子だと食べ物は喉を通らないだろう。
「今日は食事は止めておこう。とにかく家に送るから、車まで行こう、歩けるかい?」
「ええ…」
ふらりと傾いた真音の体が、支えを求めて彼の肩にもたれかかった。
顎の辺りに柔らかな髪が触れ、仄かな香水が鼻をくすぐる。
その甘い香りに反応し始めた体を意志の力で無理矢理に鎮めながら、嶺河は彼女の肩を抱いてパーキングまで歩いた。

彼女の身体はだんだんと力が抜けていくようで、足元も覚束ない。
助手席に乗せても、ぼんやりと前を見据えたまま身動き一つしない彼女にシートベルトを施し、ドアを閉めると彼も運転席へと乗り込んだ。

「どこか夜間診療をやってる病院を探そうか?」
「少し休めば大丈夫だから…」
そう言いながらも、熱のためか真音の頬は赤みが差していて、呼吸も荒かった。とにかく彼女を休ませるために、どこか横になれる場所が必要だった。
「ここからだと僕のマンションの方が近い、そっちに帰るけど。いいな?」
彼女はもはや意識がはっきりしていないようで、辛うじて小さく頷いただけだった。目を閉じたままの彼女の身体が小刻みに震えはじめている。

『まずいな、熱が高くなってきたか』
一刻も早く彼女を楽にしてやりたい。
嶺河はウインカーをあげて小雨が降り始めた大通りへ車を出すと、アクセルを深く踏み込んでいた。




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