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雪のミラージュ  8


それは何度目かの食事の席でのことだった。
それまでも毎週末、いやそれ以上、毎日と言っても良いほどに続く嶺河からの誘いの電話に根負けした真音が、都合のついたときだけ食事に付き合うようになったのは、プレゼント攻勢をやんわりとかわすためでもあった。
それでなくとも自宅には毎日のように届けられる花が家中に溢れかえり、ちょっとした花屋が開けそうなくらいだ。
花は彼女も嫌いではないし、一度配達したものは持ち帰れないと困惑する花屋の店員の手前仕方なく受け取っていたが、会う度に手渡そうとする宝飾類だけは頑として受け取りを拒んだ。
こんな状況に慣れてしまうことだけは避けたいという思いと、彼の思いのままに振り回されることに対する恐れが、彼女を頑なにする。
私は彼の恋人ではない。ましてや庇護を受ける愛人のような振る舞いは絶対にしたくない。

そして今夜も、彼女はいつものように彼から手渡された、綺麗に包装された小さな箱の包みを解くことはできないでいた。

目の前に次々と運ばれてくる料理。
このイタリアンの店は、2人分の料理を大皿に盛り合わせてくるため、すぐにテーブルの上は皿で一杯になった。
真音は自分が選んだ野菜がふんだんに入ったトマトソースのパスタを嶺河の皿に取り分けながら、テーブルの端に置きっ放しにされた小さな包みを見て、彼に気付かれないように小さくため息をついた。

これさえなければ、彼との食事は申し分ない。
最初の頃のように、二人でいることに対して気詰まりを感じることもなく、それを楽しみと思うことすらできるようになった。いや、むしろ今では彼女の方が、約束の日を心待ちにしていると言えるかもしれない。
特に家で翻訳の仕事をしている時は、彼との他愛もない会話が孤独になりがちな彼女の慰めにもなる。
だからこそ、真音には彼に依存しない対等の関係を保つ必要があった。
嶺河と分かち合う時間が増えれば増えるほど、自分の領域を守らなければならなくなる。
彼にすべてを支配されないようにするためには『友情』という名目を据えて置くのが一番安全に思えた。

食事を始めて少し経った頃、二人のいるテーブルの側を数人のグループが通り過ぎようとした。
「あら、嶺河じゃない?こんなところで会うなんて奇遇ね」
呼びかけられた嶺河は相手を一瞥すると、いつものように上辺だけの社交的な笑顔を貼り付けて、声の主に挨拶の言葉を返した。
「お久しぶりですね。僕もやっと春からこっちに落ち着けるようになったばかりで。今日はご友人と?」
彼の言葉は当たり障りのない丁寧なものだが、声に含みが感じられる。
「ええ、今夜は知人と一緒ですの。ここは今評判のお店ですからね」
その女性はそう言うと、ちらりと真音の方に目をやった。
真音は目が合ったので軽く会釈をしたが、彼女が一瞬で自分を値踏みしたであろうことを彼女の目つきで感じた。
「あなた、好みが変わったみたいね。すっかり落ち着いて…」
彼女の言わんとするところを敏感に感じ取った真音は目を伏せた。
多くの人は彼女と同じような目で、二人を不釣合いと見ているのだろう。
この女性は正直にそれを口にしただけなのだ。


「そろそろお連れの方たちの方に戻った方がいいようだね」
彼は不愉快そうに口の端を歪ませながら、その女性を促した。
「そうね。こっちに帰ってきているのだったら、またお誘いする機会も増えるでしょうから」
彼女は去り際に嶺河の肩に手を滑らせ、思わせぶりな視線を投げかけるとそのまま店の奥に向かって去っていった。

「お知り合い?綺麗な方ね」
「ああ」
彼がぶっきらぼうに答える。
短い会話は途切れたまま後が続かない。
それから二人は互いにその話題に触れないようにしながらも、相手の出方を探り合っていた。
さっきの女性と彼が以前ある程度の親密な付き合いをしていたであろうことは、彼女の態度と言葉の端々で感じられた。
彼の女性遍歴が煌びやかなものであったことは彼女も知っている。しかしそれを現実に見せ付けられたのは初めてだった。
真音にしてみれば、そのことが気にならないと言えば嘘になる。
しかし今の自分の立場からすると、それ以上聞いたところでどうにもならない。
あくまでも私は友人なのだ。
これ以上立ち入ったことを詮索してはいけない。

反対に嶺河は彼女の誤解をどう解くかを考えていた。
先ほどのことで、真音は明らかに傷ついた顔をしていた。
時間をかけて築いてきた彼女との関係を、こんな些細なことで壊されてしまうのは何としても避けたい。
華やかな過去は既に何の意味も持たない時間経過の過程だ。
彼にとっては、真音と共に過ごすことのできる今が全てになっていると言っても過言ではない。
だからこそ、些細な行き違いでせっかく開きかけていた彼女の心から締め出されることだけはしたくない。

それはまるで薄氷の上で気持ちの駆け引きしているようなものだった。
どちらかが不用意に動いたら、あっという間に冷たい水の中へと沈んでしまうような緊張感が二人の間に漂っていた。
食事のあと、重く張り詰めた気まずい雰囲気から逃れるように手洗いに立った彼真音は、口紅を直しながら壁に作り付けられた大きな鏡に映る自分の姿をぼんやりと見つめていた。

なぜ私は彼の過去を知りたいと思うのだろう。
なぜ彼と他の女性が親しくしているのを見ると胸が苦しくなるのだろう。
なぜ…?
気がつけば、鏡の中からこちらを見ているのは、生々しいほどに女の姿をした自分だった。
その顔は嫉妬に苦しみ、満たされない想いに苦悩をにじませている。
真音は、ずっと前に忘れ去ったつもりだった自分の中の「女」の部分が表情に表れてしまったことに少なからず衝撃を覚えた。

かつて夫に裏切られた時、それまでの自分と決別し生活を立て直すためには、どうしても過去を封印する必要があった。
それは同時に、自らの女としての本能や衝動をも切り捨てなければならないという、彼女なりのけじめでもあったのだ。
そして、それは夫との死別後も破られることなく、彼女を戒め続けてきた。
あの日、突然彼が現れ、彼女の世界に入り込んでくるまでは…。

私はいったい彼に何を求めているのだろう。

思いがけず嶺河の過去を垣間見たことで、彼女の心は揺らいでいた。
今夜、今の今まで、自分が彼に求めるものは「友情」に基づく信頼や優しさだと思っていた。
しかし彼女の心はそれ以上のものを求め始めている。

私は認めたくない、認めてはいけないものを彼の中に探し求めようとしている。

そう気付いた真音は、あまりの衝撃に指が痺れそうなほど強く化粧台の縁を握り締めた。そうしていないと身体を支えていられないほど彼女の足は震えていた。

一人になってからというもの、ずっと男性に近づけなかった。
自分がその場の雰囲気に流されるタイプではないと分かってはいたが、それでも常に厄介ごとに巻き込まれないように用心してきたつもりだった。
そして、それはうまくいっていると思っていた。
しかし愚かなことに、私はこの数ヶ月で今まで守ってきた警戒線を全て取り払ってしまったのだ。
そう思い立った彼女は愕然とした。

真音は無意識に呟いていた。
彼に惹かれてはいけない、彼を求めてはいけない、彼を愛してはいけない…。

彼女は見据えた鏡に向かって呪文をかけるように、何度もその言葉を繰り返した。
しかし鏡の中のもう一人の自分は、あざ笑うかのように問いかけてくる。

「本当にそれでいいの?本当にそんなことができるの?」と。

彼女には分かっていた。
どんなに自分を欺いて平気な振りをしても、心に巣食う孤独は隠せない。
一度追い求め始めた渇望は、それが満たされるまでは決して満足できないことを。


席に戻った彼女は嶺河に促されて店を出た。
「少し歩こうか?」
彼女が黙って頷くと、彼は真音の手を取り指を絡めた。
温かな春の風が吹きぬけると彼女の柔らかな髪が揺れ、優しい花の香りが彼の鼻をくすぐる。
嶺河は急に立ち止まり、上着のポケットを探った。
そして真音が受け取らなかった包みを取り出し彼女の掌に押し付けると、そっと指を折り曲げて握らせた。

「ごめんなさい、やっぱり頂けないわ」
小さな箱を彼の方に差し出しながら、彼女が呟くように言う。

「これは君に持っていてほしい、僕が選んだんだ。開けてごらん」
真音は促されるままリボンを解き、薄いブルーの包み紙を剥がして小さな箱のふたを開けた。
中から現れたのは想像していた煌びやかな宝石などではなかった。
それは小さいが美しいカットの施されたクリスタルの天使の置物だった。

そっと箱から取り出し掌に乗せると、ショーウインドウの光や車のライトが乱反射して、満ちた光の中に天使がいるように見える。

「綺麗…」
うっとりと眺める真音に嶺河は満足げに頷いた。
「この天使が一番美しく輝くのは、朝の光を浴びた時だそうだ」
彼はこれを勧めてくれた若い店員の言葉を思い出し彼女に言った。
しかしその後に聞いたことは、彼女には伝えなかった。

『このエンジェルの作られた国では、朝を共に迎えたいと願う恋人にこれを贈るのだ』
ということを。




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