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雪のミラージュ  7


タクシーで10分ほど走ると、程なく彼が予約をしていたレストランに着いた。
大通りから道一本入った狭い路地の両側は、都会の喧騒を忘れさせる静かな佇まいを見せていた。
ひっそりとした隠れ家的な雰囲気を持つこの店は彼の行き付けのようで、中に入ると名乗る必要もなく丁重に出迎えを受け、当然のように奥の個室へと案内された。

壁一面にはめ込まれた大きな一枚ガラスの窓からは、店の側を緩やかに流れる小川とその両岸の桜が見える。
案内のウエイターに軽く椅子を引かれ、席についた彼女はその景色に見入っていた。

桜が舞っている…。

満開を過ぎた桜の花びらは微かな春の夜風に散り始め、その姿を川面に浮かべて流されるがまま緩やかに漂っている。
まるで今夜の自分のように。

真音は向かいに座った彼が、手馴れた様子でワインを選んでいるのをぼんやりと見てから視線を膝に落とした。
そしてどうやってこの困惑する状況を上手く乗り切るか、ということに意識を向けた。

「………」
「…えっ?」
何か話しかけられて顔を上げると、丁度ワインが運ばれてきたところだった。
「ワイン、飲める?」
「少しなら…」
真音は暫く半分ほど注がれたワインを黙って見つめていたが、意を決してグラスを手に取った。
「偶然の再会に―」
彼がグラスを揺らした後で少し傾け口に運ぶのを見て、彼女もそれに従った。
「いい香りね」
それが年代ものの逸品であることは、お酒にあまり詳しくない彼女にも分かる。
芳醇な香りが鼻腔を擽り、淡い刺激が喉を伝わっていくのを感じながら、その余韻を楽しむようにうっとりと目を閉じ、唇に柔らかな笑みを浮かべた。

「やっと笑ってくれたね。ここに来るまで、君はまるで牢獄に送られるみたいに怯えた顔をしていたんだよ」
彼はそう言うと、軽くグラスを翳して口元に運んだ。
真音は曖昧に微笑みを返しながら、目の前の男性を見つめた。
残念なことに、今の彼女の本当の気分は再会を喜ぶ乾杯とは程遠いものだった。

それから次々と料理が運ばれてきたが、出てくるタイミングは絶妙で、配慮の行き届いたものだった。その上盛り付けが芸術的に美しく、美味なものばかりだ。
食事が進むにつれてお酒も入り、始めはぎこちなかった二人の会話も少しずつ滑らかになっていく。
初めて会った時と同じく、彼の話術は巧みで、話題に事欠くことはなかった。
最初はこの状況に文句の一つも言いたい気持ちもあったのだが、低く甘い声で流れるように話されると、いつの間にか彼女も話に引き込まれ、聞き入っていた。


彼、朝倉嶺河はいろいろと自分のことを語った。
年齢が29歳であること、仕事でここ1年はほとんど国外で過ごし、時々日本に戻ってきていたこと、家族のこと、趣味のこと…。
あの雪の日が、ちょうど仕事が一区切りついて日本に帰ってきた時だったこと。

真音は頷きながら黙って聞いていた。
考えてみれば、自分と彼はあの日たまたま出会っただけで、お互いのことなど何も知らない行きずりのようなもの。
今日のこの食事も、まるでブラインド・デートみたいだ。
こういうチャンスに遭遇することは、20代の頃なら期待に心ときめかせたかもしれないが、今の自分にとっては気分を重くするもの以外の何者でもなかった。
十年足らずで終わりを告げた結婚生活の間に圧し掛かっていた日々の重圧は、彼女の心に確実に影を落としている。
向かい合っても交わす言葉を持たない、冷たい時間の空虚さが彼女の脳裏に甦る。
かつての破綻した夫婦関係が暗礁に乗り上げ始めた頃、彼女を一番苦しめたのはその沈黙だった。
何より気まずい沈黙が恐ろしかった。
そして、それが男性と二人きりの時に訪れることは、さらに苦痛だった。
今日は何とか凌いでいるが、いつそんな状況に陥るかとびくびくしながら、半ば上の空で彼の話に相槌を打つ自分が惨めだった。

食事の最後にデザートとコーヒーが運ばれてくる。
やっとこの席から開放される。
彼女が心底ほっとしたような表情を浮かべたのを目にした嶺河は、真っ直ぐに真音の瞳を見ながらこう切り出した。
「単刀直入に言う、僕と付き合って欲しい」
真音は驚きの表情を浮かべて俯き、彼の鋭い視線から目を逸らした。
膝の上でナプキンを握り締めた手は微かに震えている。
話の流れからは全く予想も出来なかった展開だ。困惑した彼女は、どう反応したらよいのか分からないまま何も言えずに黙り込んだ。

「僕の手の内は全て見せたつもりだ。次は君がカードを切って見せて欲しい」
畳み掛けるように答えを促されたが、まだ彼女は自分が言うべき言葉を見つけられないでいた。
彼が見せたカードは、世間一般の女性には確かに魅力的なものだろう。
地位、名誉、学歴、財産、甘いマスク、そして男性としてのセクシーで性的な要素。 どれ一つを取っても、超一流としか言いようがないほど煌びやかなものばかりだ。
しかし、それらが今の彼女にとって何の意味もないただの条件の羅列であることを、彼にどう伝えればよいのだろうか。

今までの人生で、彼女が心から欲しいと思うものが手に入ることはなかった。
そしてそれは多分これからも彼女に与えられることはないだろう。
たとえ目の前の彼がどんなに強い権力を持った、裕福な人であっても。

真音は敢えて彼の問いに答えず、代わりに率直に思っていた疑問を投げかけてみる。
「なぜ出会ったばかりの私たちが付き合うとか、そういう話になるのかが分からないんです。あなたが言われることが私には理解できないの。だから…こんな状況で返事なんてできません」
「でも幸か不幸か、君は僕と出逢ってしまったんだ。もう逃げられないよ」
彼は額にかかった髪をかき上げながら、挑むように彼女を見つめる。
その自信に満ちた傲慢で確信的な言葉が彼女のプライドを刺激した。
「私、そんなに簡単に落とせる、軽い女だって見られているのかしら?」
彼女の声には侮られたという悔しさが滲んでいた。
動揺を隠そうとしたが上手くいかず、声が上ずり語尾が震える。
「軽いなんて思ってない。そんなことは一言だって言ってないだろう?」
彼は余裕の表情を崩すことなく、真音の憤りをさらりと受け流した。
「ではなぜ、どうして私なの?」
振り絞るような掠れた声が彼女の口から零れた。
「どうして君か、理由を聞きたいかい?」
嶺河はあくまで冷静に、彼女を見据えたまま答える。
「本当のところ、理由なんてない。強いて言うなら君とあの日廻り合ったこと、そして今日再び出会えたこと。それだけだ。なのに君は僕の心を捕えて離さない。あの時から、どうかしてしまいそうなほど君が欲しくてたまらないんだ。それが何なのかは僕にも分からない。でも…きっとこれからは逃れられない気がする。強いて言うならそれが『運命』だから。それ以外、確かな理由は何一つありはしない」

弾かれるように視線を上げた真音が見たものは、自分を見つめる彼の欲望にけぶった鋭い瞳だった。
そこにあるのは、まるで標的を狙うような眼差し。
彼女は反射的に目を逸らしてしまう。
追い詰められた獲物のように、視線を逸らした瞬間に狩られる運命は決まった。
あとは追い詰められて飛び掛られるのを、震えながら待つしかない。

―― もう逃げられない。

そんな予感がして背筋がゾクリとする。
自分の世界が、彼によって少しずつ変えられてしまう。
不安が更に声を掠れさせる。
「残念ね。私はきっと貴方のご期待には応えられない。だから…お願い、私のことは今日を限りに忘れて」
「それでもきっと近い将来、君は僕のものになる。いや、僕のものにしてみせる…必ず、だ」
嶺河の言葉は強引だったが、その目は真剣で実直だった。
彼女は射すくめられたように身動きさえできなかった。

怖い。
本能がそれを感じ取り、身を竦ませた。
彼の出現で彼女を取巻く防壁が、一瞬にして吹き飛ばされてしまいそうな不安が胸を過ぎる。
自分には昔のように無謀な試みに飛び込んでいけるほどの勇気も若さもない。
特別はいらない。
安定した日常、穏やかな生活、今はそれで十分満足しているのだから。

「ごめんなさい、それでも私は…そんな気にはなれないの」
心に波立つ不安を隠すように彼女が呟いた。長い沈黙が心に刺さるようで痛かった。


「出ようか?」
真音は彼の言葉に無言で頷き、立ち上った。
「返事は急がない。ゆっくりと考えてほしい」
「いくら考えても答えは同じよ」
彼女を見つめる彼の目が、微かに笑うように揺らいだ。
まるで自分の勝利を確信しているかのようなその振る舞いは、挫折を知らない権力者のものだ。
『随分な自信家さんなのね、あなたは…』
そんな彼を見て真音は心の中でそっと呟いた。

「綺麗…」

店の外に出ると、ほのかに桜の花の香りがした。
風に乗った花びらが、二人の上にひらひらと舞い落ちてくる。
彼の手が伸びてきて、真音の髪に着いた花びらを指で掬い上げる。
そのまま項を軽く抱き寄られて、気がつくと彼女は嶺河の腕に中にいた。

彼が耳元で囁く。
「また週末に会える?」
「分からない…」
真音は戸惑いの表情で呟いた。
「僕のために、他の予定は全部キャンセルしてくれるね」
「……」

吐息のように聞こえる彼の声は、抗えないほど甘く優しく耳元をくすぐる。
拒むことを許さない妖しい響きに囚われた彼女は、身を竦めたまま首を小さく振ることしかできなかった。




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