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雪のミラージュ  6


「まだ少し早いな」
待ち合わせの6時までにはまだ少し時間があった。
嶺河はロビーのソファに腰を降ろしタバコに火を点けた。
先ほどまで着ていたタキシードから着替えたその井出達は、彼のすらりとした魅力的な体を包むチャコールグレーのスーツだ。一見地味でオーソドックスなものだが、むしろそれが彼自身の持つ魅力を際立たせて見せる。
相手に一分の隙も見せてはいけない、交渉事の最前線に常に身を置く彼にとって、日常身につけるスーツはビジネスの世界で闘うための戦闘服だ。
しかし今夜の戦場は少し趣が異なる。
考えようによっては営利が考慮されない分、いつもよりもっと手強い相手と言えるかもしれない。

今日、本来なら一番の収穫は提携の調印になるはずだった。
会社の発展のため、そして仕事に対して大きな野心を持つ自身のステップアップのためにも、この仕事をやり終えた満足感がないと言えば嘘になるし、この日のために払った犠牲は計り知れない。
しかし今、彼の中で大部分を占めるのは『仕事』のことではなく『彼女』のことだった。

再会した瞬間「手に入れたい」と本気で思った。
この偶然を逃せば後はないと。
だからこそ彼女の意向などほとんど無視するように、半ば強引に約束を取り付けたのだ。

なぜこれほどまでに強く駆り立てられるのか、自分でも不思議だった。
いつもなら仕事においてもプライベートなことについても、相手の出方を見定めて用心深く一番効果的な方法を探すことができるのに、彼女に対しては余裕が持てず、焦りが出てしまう。
真音の自分に対する素っ気無さが気に入らないのか?
今まで付き合った幾多の女性たちと違う彼女の反応は、誘えばある程度の好感触が得られると思い込んでいた彼には予想外のことだった。
あくまでも控えめな態度だが、「断りたい」という拒絶の意思はありありと感じ取れる。

社会に出てからというもの、彼の容姿や社会的地位、老若男女を問わず受けの良い社交術は常に自分の味方だった。そして、それをより魅力的にする「朝倉」という強力な後ろ盾は、常に彼の側にあって期待に背いたことはなかった。
この世界にいると、好むと好まざるとに関らず『家名』や『金』に引かれて寄ってくる輩が多いのだが、彼女にはそういう色気はさらさらないらしい。
あの様子を見ると、彼女は嶺河が「朝倉」の人間であることにすら関心がなく、取るに足らないほど些細な条件だと思っているようだ。

実際、今まで彼が食事に誘った女性の中であからさまに迷惑な顔をされたのは彼女が初めてだった。
それが彼の闘争心を刺激した。
拒まれると余計に手に入れたいという欲望に駆られ、彼のハンターとしての本能が一層煽られた。逃げるターゲットを追い詰めたくなるのは、男の性(さが)として当然だろう。

必ず彼女を仕留めてみせる。このプライドにかけても…。
あまりにも自分らしからぬ執着にふと気付いた彼は苦笑いを浮かべた。
一体彼女の何に、ここまで強く引き付けられるのか。
何故、どうして…?

「運命…か」
突然柄にもなくそんな言葉が頭に浮かぶ。
自分は決して運命論者ではない。しかし、何の関係もない人間が偶然に出会う確率は如何ほどかと考えると、あながちすべてを否定することもできない。
この世に男と女は星の数ほどいる。
そんな中で彼女とは偶然に、二度も出会ったのだ。それもこの大都会の中で。

奇跡なのかもしれない。

出会うべくして出会った『運命の女(ひと)』
だから理由もなく彼女に強く惹かれるのだろうか。
無意識に彼女の姿を追い求めてしまう、自分ではコントロールできない衝動。
それが逃れられない「運命」というものならば、一生に一度くらいは感情の赴くまま、抗えない奔流に流されてみるのも悪くはない。

我ながら酔狂なことだな。
今まで味わったことのない高揚感に酔いながらも、彼は自嘲気味に苦笑した。


視線を感じた嶺河がふと目を上げると、そこにはこちらを伺いながらも何かを迷うように立ち尽くす彼女の姿があった。
絶対に逃がさない。
嶺河は無意識のうちにタバコを灰皿に落とすと、その顔に魅力的な笑み湛えてゆっくりと彼女のほうに歩み寄っていった。
「では行きましょうか?」
一瞬、彼女の目に苦渋の色が浮かんだのを黙殺する。
拒絶は許さない。あなたはもう僕からは逃れられない。

「あ、あの…私…」
「今日は僕がお誘いしたんですから、ちゃんとエスコートさせてもらうから…ね」
何か言いたそうな彼女を遮るように、強引に背中に軽く手を添えると、彼女の口元が一瞬びくりと震る。
それでも硬く強張った背中を軽く押すと、視線を落としたまま彼女がふわりと歩き出した。

出会った時にも小柄だとは思ったが、改めて彼女の側に並んで見るとそのパーツの一つ一つが小さく華奢なのが分かる。
そのくせ胸から腰、そして脚と流れるラインは優しい丸みを持ち、女性としての魅力を主張している。
今夜はシンプルな膝丈のドレスだが、彼女を本格的にドレスアップさせたらどんなに美しい姿になるだろうか。そしてそれを全て取り去ってしまったら…。
突然沸き起こってきた衝動に反応しそうになる体を、意志の力で何とか抑えつけた。
今までの彼は女性に対して冷酷なまでにストイックになれた。そして彼の体もその期待を裏切ったことはない。
常に自分をコントロールすることに慣れているはずが、こと真音に関してはその抑制をどこまで保っていけるのか自信が持てなかった。

彼女には男を狂わせる何かがある。

そんな妄想に執り付かれているうちに、真音が少し身体を捩らせ、背中に当てた手を外そうとしているのに気気付いた。
考えるより先に腕が動き、彼女の腰を強く引き寄せる。
彼はあくまでもさりげなさを装うが、自分の手中から獲物を逃すことはなかった。
ホテルの出口で真音からコートを取り上げて着せ掛けた時に、ほんの一瞬彼の手が彼女の項を掠める。
彼女は僅かに身体を震わせて彼を見たが、何も言わずに再び俯いて彼の手からコートを着た。


タクシーに乗り込んでからも、真音は相変わらず体を強張らせて押し黙ったままで、反対側のドアに身体を預けてじっと外を見据えている。
窓ガラスに写ったその表情は硬く、困惑の色がありありと浮かんでいた。

冷静に考えてみれば、自分は彼女に対して何一つとしてはっきりと、意思の確認すらしていない。
強引すぎると言われても仕方がないやり方でここに連れて来ているのだから、彼女の反応は無理からぬことなのだが…。

嶺河は彼女から視線を引き剥がし、気づかれないようにそっと息を吐き出した。そして窓の外を流れる景色を見ながら、自虐的な気分で今日これまでに自分がしてきたことを考えていた。

『まるで自分を制御できない子供のような行動だな』
そう思うと、思わず苦笑してしまう。
自分では抑えられない暴走、止められない独占欲。
今までこんな感情を持ったことはなかった。
少なくとも、自我をコントロールできる年齢になってからは常に自分の欲求と闘い、それを表に現さないように努力してきたつもりだったし周囲からもそれを求められた。
しかし彼女はそんな彼の強靭な意志をいとも簡単に揺るがせてしまったのだ。
何の手管も講じることなく、そこに存在するだけで。

彼の中で何かが変わり始めていた。
真音に出会って、まだ自分でもはっきりとは分からないが、今までにない何かに突き動かされていくのを感じていたのだった。



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