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雪のミラージュ  5


約束の時間より少し早く1階のロビーに降りた真音は、すでにソファに座ってタバコをくゆらせている彼の姿に目を留めた。
先ほどのフォーマルなタキシードからスーツに着替えたようだが、彼が魅力的なことには変わりない。
彼はそこにいるだけで人目を引いていた。遠目に見ても端正な顔立ちは、前を行く女性たちの目を引くに充分過ぎるほど魅力的に映っている。
オーラが出ているとでも言うか。
やはり彼は住む世界が違う人だ。

なぜ彼は、あの雪の日に偶然道連れとなっただけの自分に声をかけ、強引に食事に誘ったりしたのだろうか。
あの場にはきっと彼にふさわしい良家のお嬢様もいたはずだし、モデルのように美しい女性たちが彼を気にしてチラチラと熱い視線を送っていたのも分かった。
長身の彼がスタイルの良い女性と並んでいると周りが翳むくらい素敵で、まるでファッション誌から抜け出たようだった。
どう考えても彼の横にいて見栄えがするのは彼女たちの方だし、その方がずっとお似合いだ。
地味な自分と目立つ彼が一緒にいても釣り合うはずがない。傍目にどんな風に見えるかを考えると居た堪れない気持ちになってくる。
そんなことを考えると何だか急に気後れしてきた。
側にいて気まずい思いをするくらいなら、いっそのこと食事を断ってこのまま帰った方が良いのかもしれない。
いやいやながら一緒にいるのは、誘ってくれた彼に対しても失礼になる。
本気でこのままこっそりと帰ってしまったら、彼はどうするだろう。
いざとなれば逃げ出す手立てはいくらでもある。今ならロビーを通らずに通用口を使えば、誰にも気付かれることなくここを抜け出せるはずだ。
しかし、そんなことをすればきっと彼はこのまま待ち惚けをくうことになるのだと思うと彼女の良心が咎めた。
他に選択肢を与えられなかったとはいえ、彼の誘いを毅然とした態度で拒否しなかったのは彼女の非なのだから。

どうしよう…。

そんなことを考えながら、真音はその場に佇んでいた。
どうすれば良いのか、そして自分自身がどうしたいと思っているのか。
自分の本当の気持ちを見極めることができず、彼の方に一歩踏み出す勇気を持つことができなかった。

その時、彼女の戸惑いを感じとったかのように嶺河が顔をこちらに向けた。
瞬時に彼の眼が真音を捕える。
嶺河は真音の姿を見ながら手にしていたタバコを消すと、ソファから立ち上がり、その場で真音が来るのを待っていた。
だが、なかなか動かない彼女の様子に迷いを見抜いたのか、彼がゆっくりとこちらに向かって近づいてきた。

その優雅な一連の動作を見た真音は、思わず感嘆のため息を漏らしそうになった。
彼の一挙一動は鑑賞に値するほど洗練されている。
女性なら、だれでも自然に彼の動きを目で追ってしまいそうだ。
しかし同時にその隙のない身のこなしは、彼女に緊張感を抱かせた。彼の動きはまるで獲物を狙う肉食獣のようだ。的確に相手の逃げ道を塞ぎながら、しなやかな動きで距離を詰めていく姿を髣髴とさせる。

「では、行きましょうか?」
「あ、あの…」何とか断りたくてタイミングを計るが、悔しいことにこういうことを思い通りに運ぶ技量は彼の方が一枚も二枚も上手だった。
「今日は僕がお誘いしたのですから、ちゃんとエスコートさせてもらうから…ね」
彼はちょっと悪戯っぽく笑うと、有無を言わさず真音の背中に軽く手を添える。そのあまりにも自然な振る舞いは、彼女の警戒心を煽った。
慣れない感覚に緊張した体は更に強張り、肩に力が入って動きがぎこちなくなってくる。
それに加えて目立つ彼と一緒にいることで、周りから、特に女性たちからの遠慮のない羨望の視線がますます彼女を萎縮させた。

『もう少し離れてくれないかしら?』
真音は恥ずかしさで、足元を見つめたまま視線を上げることができなかった。
信じられないことに、二人は身体を半分重ねるようにして歩いている。
少しでも歩く早さを緩めると、肩や腕が彼に触れてしまい、その度に彼女の体に小さな震えが走った。
彼との間隔を開けようと歩幅を大きくして少し前に出るが、小柄な彼女が長身の男性のコンパスに敵うはずもない。
一旦は背中から外れた彼の手で腰を掴まれ、彼の方により強く引き寄せられただけだった。
少し体を捩ってその手から逃れようとしてはみたものの、しっかりと回された腕は緩むどころかますます強く彼女を抱き寄せようとする。
彼女は今まで男性に腰を抱かれ、引き寄せられるような経験をしたことがなかった。
学生時代に付き合った人たちはもちろんのこと、亡くなった夫でさえ公の場ではエスコートのために腕を組む程度だった。
こういう展開になった場合、どう反応して対処するべきなのかを知らない真音は焦って間誤つくばかりだ。

しばらくしてやっと彼の手が腰から離れて背中に戻った時、彼女はこれ以上無駄な抵抗をすることができなくなっていた。
体を押し付けられるより、まだ背中に手の感触がある方がまだましだと思えた。人前であんなことを何度もされたら気がおかしくなりそうだ。
しかし、背中に軽く添えられた手を彼のものだと意識すればするほど、そこがじんわりと熱くなってくる。同時に胸の鼓動が高鳴り、息苦しささえ覚えてしまうのだ。

彼は一体何を考えて、こんなことをしているのだろうか?
真音は自分の少し斜め後ろにいる男性の顔をそっと見上げた。
彼の目には良く判らない、少なくとも彼女には理解できない何かが潜んでいた。
しかし、真音が彼を見た一瞬の後にその目の中の炎は隠され、後には感情の読めないクールな表情が浮かんでいるだけだった。

彼は人目を気にすることなく淡々とエスコートをし続け、ホテルを出る時にはさりげなく彼女の腕からコートを取り上げて着せかけた。
こんなことをしても彼はまったく気障には見えなかった。
彼の堂に入った紳士ぶりは見事なもので、むしろそれを受ける女性に優越感すら与えてしまう雰囲気がある。

この人は女性の扱いに手慣れた人だ。
彼女はそう思うと同時に、より一層警戒を強めた。
これ以上深入りするのは危険だ。彼女の中で警鐘が鳴り響く。
彼が今までにも多くの女性たちと、こういう付き合いをしてきたであろうことは容易に推測できる。
そこにいるだけで存在自体が目立つ人なのだから、彼にその気がなくとも周りが放っておくはずがない。
なぜそんな特別な人が、取るに足らない存在の自分を気に留めたのだろう。
そもそも彼女は軽い付き合いができるお相手になれるタイプではないし、なるつもりもなかった。
それに、何よりも彼女は自分の中に残る過去の傷を穿り返されることを恐れていた。
やっと忘れかけていた、悪夢のような過去の日々。
心の奥底に沈めて鍵をかけた記憶を呼び起こすのは怖くてたまらない。
あの頃は、毎日が自分の心との闘いだった。
そして3年の年月を経た今、ようやく彼女は平穏な日常を取り戻したのだ。
一時の迷いのために、再びあんな思いをすることにはとても耐えられない。

また無意識に身体を引こうとした彼女を引き戻すように、背中に当てられた彼の腕が動いた。
「どうかしましたか?」
タクシーのドアを軽く押えて先に乗るように促しながら、彼が問いかけてくる。
彼女を見つめる目。
あくまでも優しげに見える眼差しの中に、有無を言わさないという鋭さが宿っているのが見え隠れする。
彼はまるで獲物を見つけたハンターのようだ。標的を絞り、あとは冷徹にトリガーを引くタイミングと緊張感を楽しんでいる。

――引きずられてしまう。

真意が分からない彼の優しげな仕草の中に潜む強引さが、彼女の心に波紋を投げかける。
逃れようとすればするほど、彼の投げた網の中に絡め取られていくようだった。
彼の存在が怖い…。
心の底からそう感じた真音は、震える体をタクシーのドアに押しつけて平静を装った。
速度を上げた車窓には、満開の桜並木が美しい景色を流して行く。
しかし今の彼女の虚ろな目には、そんな春の景色さえも映し出されてはいなかった。




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