心地よいクラッシックの演奏、和やかな談笑、グラスの触れ合う甲高い響き、ドレスの衣擦れの音…。 正装した人々が目の前を行き交う一流ホテルのパーティー会場は、華やかな雰囲気に包まれている。 ビジネス絡みのパーティーなので必ずしもパートナー同伴というわけではなさそうだが、それでも一人で所在無さげにぼんやりとしているのはかなり目立つらしい。 先ほどから通りがかりのウエイターに何度も飲み物を勧められるし、知らない男性から声をかけられたりもした。 「やっぱり、場違いよね」 とりあえずの『お仕事』を終えて、壁の花と化した真音は居心地悪そうに独り言を呟いた。 クライアントは急ぎの仕事の電話が入ったと言ってホテルの自室に戻ってしまい、彼女は一人この場にとり残されてしまった。 何かすることがあるうちは周りを見る余裕はないが、気詰まりさもない。しかし突然知らない場所に放り出されてしまい、はたと自分の置かれている状況に気がつき途方にくれた。 これから一体何をすればいいのだろう? クライアントはここに戻ってきてくれるのだろうか。 彼女は急に心細くなってきた。 これではまるで遊園地で迷子になった子供と同じだ。 予定外、そう、今日の仕事はいろいろな意味で予定にはないことだった。 今回は知り合いの通訳が急病ということで、急遽代理を頼まれてここに来たのだが、本来フランス語は彼女の専門ではない。 ただ、家庭の事情で海外生活が長かったため、必要な会話くらいならば何とかこなせるという程度だ。 ただでさえ日本にいると使う機会のないフランス語を、久しぶりに、それも仕事の一環として使うことにかなり緊張したし、失敗しないように気を使った。 クライアントも英語が使えるのだから、そちらで会話をしてくれたらいいのに、彼は頑固にフランス語で話をすることに拘ったのだ。 それにしても、この雰囲気は疲れる。 住んでいる世界が違うとはいえ、こんなところに長くいると神経を使いすぎておかしくなりそうだった。 自分のような性格の人間が、優雅に社交的な会話を楽しむなんてどう考えても無理がある。 そう思うとこんな場所になぜ自分が立っているのか、それからして不思議なくらいなのだから。 着馴れないドレスに普段はしない念入りなメイク、加えて低い身長をカバーするために履いた踵の高すぎるパンプスが疲労を倍増させる。 『もう帰りたい…』 虚ろな目で華やかな周囲の景色を眺めながら、彼女の口から漏れるのはため息ばかりだった。 「お疲れのようですね」 ぼんやりとしながらどのくらい時間が経っただろう。突然話しかけられた真音は、緊張で思わず身を固くした。 見知らぬ人からの度重なる誘いに辟易した彼女は、極力目立たないようにパントリーの出入り口の側に潜むようにして立っていたのに、それでも声をかけられてしまうなんて。 その様子を見た男性が慌てて言葉を続ける。 「ああ、失礼しました。そんなに驚かれるとは思わなかったので」 特徴的な優しいバリトンボイスの響きに、わずかに視線を上げて声の主をうかがう。 「またお目にかかりましたね」 そう言って近づいてくる男性はにこやかに微笑んでいる。 「あの…失礼ですが、ここ以外のどこかで、あなたとお会いしたことがありますか?」 あまりに清々しい笑顔に惑わされないよう、警戒しながら聞いた。 「ええ、前に一度」 「ごめんなさい、私まったく…」 見上げた背の高い男性に心当たりがない。 しかし、見ていてときめきを覚えるほど整った顔立ちと、洗練された立ち居振る舞い、そして見るからに高級そうな衣装をさりげなく着こなすセンスに目を奪われた。 どんな職業の人なのかは判らないが、彼は人の目を引きつけて離さない独特の雰囲気がある魅力的な男性には違いない。 しかし微笑をたたえた表情とは裏腹に、彼の鋭い目は獲物を狙うハンターのように容赦なく彼女を捕えていた。 その瞳の力強さに射抜かれたような気がして、動悸が早くなるのを感じる。 「気付いていただけませんか?」 そう言われても…ないものはない。 そもそも、こういう場に知り合いなどいる筈がないのだから。 誰かと人違いしているのでは? 「つれないなぁ。ほら、3月の、春の雪の日に…」 春の雪の日… そう言われた彼真音は、はっとして目の前の男性を見つめた。 「あの時の?」 「思い出してくれましたか?本当に知らないって言われたら、どうしょうかと焦りましたよ」 目の前の男性が、ほっとしたように口元を緩ませる。 「そんなに印象が薄かったのかなぁ?僕はひと目であなただと気がついたのに」 「すみません。あの時は気が焦っていて、どんなお顔をなさった方かもよく覚えていなくて…」 彼女の中に残っているあの日の男性のかすかな記憶は、すらりと背が高く、うっとりするほど低く甘い声の持ち主、というものくらいだ。 特別に気にしていたわけではないし、あの状況ではじっくりと顔を見ることもできなかったのだから、はっきり覚えているはずがない、とは本人を前にして言えなかったが。 この人がそうだったのね…。 成功を手にした青年実業家、というところだろうか? 見るからに自信に満ち溢れている。 あの時は気がつかなかったが、この人もまったく違う世界の住人だったのだ。 真音はしばらく男性を見つめながら物思いに耽っていたが、彼が近づいてきて二人の間の距離を縮めたのに気付き、現実に引き戻された。 気がつけば、彼の胸がすぐ目の前にある。 小柄な彼女は、並ぶと彼の肩くらいまでしか背丈がない。 あまり側に寄られると視界が遮られてしまうが、真音は敢えて再び距離を開けようとはしなかった。 彼の鋭い目を見てしまうと、動けなくなってしまいそうに思えたのだ。 すぐ側にいれば、身長差で彼の目を直視することはない。 なぜだかその方が安全な気がしたのだ。 「もし時間があるようでしたら、お食事でもご一緒しませんか?この近くに良いお店があるので」 二人の間の空気が張り詰めてくるのを感じてか、彼は急に話題を変えて食事の誘いをかけてきた。 「せっかくですが、私まだ仕事中で…」 真音は何とか理由をつけて断ろうと試みる。 知らない人と食事をしても緊張するばかり。料理の味なんて分からないに決まっている。それに彼女は何より親しくない人と打ち解けて話をするのが苦手だった。 この年齢で人見知りというのは恥ずかしい話だと思うが、事実そういう場では悲しいほど会話が弾まず、気まずい思いをすることがしばしばある。 あの沈黙を含んだ息苦しさがたまらなくいやなのだ。 「それなら、あと少しでパーティーも終わりますから、その後でということなら問題ないでしょう?」 彼の誘い方は強引だった。 一体何が目的なのか分らず、どうやって断ろうかと考えているうちに、勝手に話を進めている。 「6時半に予約を入れておきますから」 「あっ、あの、困ります、そんな。私たち偶然、それも一度っきり会っただけなのに、急に今夜お食事とか言われても…」 「あの時は時間がなくて自己紹介をする余裕もなかったですからね。今日はゆっくりいろいろとお話したいと思って。行く店は雰囲気が良くて静かなところですし、ゆったりと食事をとりながらお話できますよ」 真音は彼の勝手な言い草に戸惑い、軽い怒りさえ覚えながら、視線を上げてすぐ側に立っている男性の顔を見つめた。 彼はもう約束を取り付けた、と言わんばかりに満足げな笑みを浮かべている。唇の端を少し上げたその表情は、女性ならば誰でも思わず見とれてしてしまいそうなほど魅力的だ。 彼女の中で警報が鳴り響いた。こんな男性と二人で過ごすなんて危険すぎる。 「ご一緒しても私にはあなたにお話したいことなんて何もないですわ」 わざと素っ気無く言う。 「僕にはある。貴女のことをもっと知りたい。そして、できれば僕のことも知ってほしい。それではいけませんか? では、6時に下のロビーでお待ちしていますから」 悪びれる様子もなく、きっぱりと言い切る彼の傲慢な態度に呆気にとられている真音を尻目に、さっさと予定を決めてしまったようだ。 結局彼女は反論する機会すら与えられないまま、気付いた時には既に彼の予定に組み込まれていた。 悔しいが、こういう場数は相手の方が数段多く踏んでいるのだ。 それに仮に異義を唱えたとしても、彼の手にかかれば真音の抵抗をかわすことなど、赤ん坊の手を捻るよりも容易いかもしれない。 「ああ、そう言えばまだお名前をうかがっていませんでしたね。僕は朝倉嶺河といいます」 名乗りたくないが、先に名乗られると礼儀上答えざるを得ない。 彼女は仕方なく、いやいやながら自分の名前を教えた。 「私は西山…真音と申します」 「真音さんですね。ではまた後ほど」 なぜか彼は親しげに、苗字ではなく名前の方を呼んだ。 そして悔しいほど魅力的な顔で彼女に向かって微笑むと、会場の喧騒の中に戻って行ったのだった。 踵を返して離れていく彼の後姿を見ながら、また一つため息をつく。 『何でこんなことになってしまったのかしら?この格好のまま、あの人とさらに数時間過ごさなければいけないなんて…』 クライアントが彼女の元に戻ってきたのは、それから暫くたってからのことだった。 時間となり、一旦は仕事を終えたが、真音は彼の誘いを受けるべきかどうかをまだ迷い続けていた。 いつもなら仕事が終わると充実感と安堵感でほっとできるのに、今日はこれから起こることを考えると気分が重く余計な疲れを感じてしまう。 男性からこんな風に食事に誘われたのはいつ以来だろう。 彼女はエレベーターの、鏡のように磨き込まれた銀色の扉に写る自分の姿を見て、深いため息を漏らした。 彼に誘われた理由が分からなかった。 もしあと10歳若かったら…こんな状況でももっと楽しめたのかもしれない。 展開はあまりにもドラマチックだ。素敵な男性に見初められ、食事に誘われて、そして…いや、そんな事は有り得ない。 あれから会場で何度か見かけた彼の周りは、いつも若く美しい女性たちが取り巻いていた。 こんな自分が『見初められる』などと考えるのはあまりにもおこがましい。 もう若くはない自分の姿を見ながらそんなことを考えると、自然と自嘲の笑みが零れてしまう。 愚か。そう、あまりにも愚かしいことだ。 『これはただの食事、そう思って割り切るしかないのかな…』 もやもやした気持ちを拭いきれず、心ときめかないまま約束の場所に向かう。 そんな自分が何だか悲しくて、彼女は無意識のうちに唇を噛み締めていた。 HOME |