翌日、空は花曇りではっきりとしない天気になった。 いつもならどこに出かけるにも自分で車を駆るのだが、今日は社から差し回された車の後部座席に身を沈めている。 会場となるホテルに向かう車中で嶺河は何度となく空を仰いだ。 このまま雨になれば、折角咲いた桜も散ってしまうだろうか…。 通りすがりの校庭で、今まさに満開の桜の花に目を留める。 あの雪の日の彼女もどこかでこうして桜を見上げているのだろうか? 吹き付ける風の中を耐えるように佇んでいた姿が、散りゆく桜の儚さと重なるようで、ふとため息を漏らす。 どうもあの日以来、彼女の幻想に囚われてしまったようだ。 一人で苦笑いしながら気持ちを入れ替えた彼は、最終確認のため再び書類に目を落とした。 予定通り、業務提携の調印は無事終わり、プレス向けの発表も滞りなく済んだ。 一年以上の準備期間を費やした大プロジェクトだっただけに、責任者としての責務を全うした安堵感も一入だ。 携わったスタッフ全員に労いの声をかけ、握手をしてビジネスとしての行事をすべて終えた嶺河は、ホテルの上階に取っておいたスイートの一室でネクタイをくつろげ喜びの余韻に浸っていた。 あとはこの後に提携を記念して開かれるレセプションパーティーが控えているだけだ。 それを最後にこのプロジェクトは完了する。 時計を見て時間を確認し、仕立ての良いブランド物のスーツを脱ぎ捨てると、シャワーブースに向かう。 社交の場に出かける前に軽くシャワーを浴びる習慣は、この一年海外に滞在するうちに自然と身に着いたものだ。 いつもは分刻みのスケジュールに追われるようにさっと汗を流すのが精一杯だが、今日は一年分の疲れを洗い流すようにゆっくりと熱いシャワーを浴びたい、そんな気分だった。 ホテルの大広間で開催されるレセプションパーティーの会場は、華やかな雰囲気に包まれていた。 クラッシックの生演奏が流れる中、タキシードやドレスに身を包んだ政財界からの招待客たちが、カクテルやシャンパン、ワインを片手談笑している。 その中にすっかりくつろいだ様子の嶺河と大地の姿もあった。 二人とも黒いタキシードにブラックタイというスタンダードないでたちだが、広い会場の中にいても長身の二人が並んでいるとかなり目立つ存在だ。 少し細身でモデル並の容姿を持つ嶺河が、長めの髪を無造作に流して柔らかい印象を作っているのに対して、がっちりとした体格で精悍な顔立ちの大地は、短めの髪をきっちりとなでつけ、堅いイメージで野生的な雰囲気を計算高く隠している。 これほど印象が違う二人だが、各々に魅力的な条件を持つ独身の兄弟は、どこにいても常に女性たちの熱い視線を集めてしまう。 そして、そのカリスマ性は女性のみならず、周囲の男性たちの目をも惹きつけてしまうのだ。 「よく頑張ってくれた。今回のプロジェクトは、文句なくお前の功績だな」 会場に届けられた、たくさんの祝いの花々を見ながら、大地は満足げな笑みを浮かべた。 「ああ、これでやっと一息つけそうだ、ご褒美にバカンス並みの休暇でも頂きたいものだな、副社長殿?」 「考えておこう」 笑いながら軽口を交わしあう二人の側に、今日の主賓の一人である相手先企業の役員が歩み寄る。 順番に握手を交わし、簡単な挨拶を英語で済ませると、相手の希望でその後はフランス語での会話となった。 二人ともビジネス上必要な英語はほとんど苦労なく使いこなせるが、フランス語は堪能というレベルには程遠い。 この一年、ヨーロッパへ通い詰めた嶺河でさえ、何とか必要な日常会話を使える程度のものだ。 そこで相手が同伴した通訳が会話を仲介することになった。 「――今回の提携で、わが社は貴社のEU進出への足がかりとして、重要な役割を担う事ができることを光栄に思っています――」 通訳を通じての会話だが、相手もこれからの関係に十分期待しているのが感じられ、二人も満足気に頷いた。 少し酒も入って上機嫌なフランス人の、大きな体の影に隠れるように控え目に言葉を紡いでいく、どこか聞き覚えのある優しい声。 その囁くようなフランス語の心地よさに聞き惚れ、相手から少し視線を外して肩越しに見た嶺河の目は、その声の主に釘付けになった。 ――彼女だった。 忘れもしない横顔。 あの雪の日以来、自分の中で恋焦がれていた名も知らない女性。 そのひとが今、目の前にいた。 彼女は通訳に徹していた。 彼女を見つめる嶺河の熱い眼差しなどまるで気付きもしない様子でただ淡々と、しかし真剣な面持ちで静かに言葉を紡ぎ続けている。 彼の意識は一人の女性へと向かっていた。 会場のざわめきも、奏でられる音楽も、そして側で会話を交わしている兄たちの声さえも、今の彼には届いていなかった。 彼の周囲は静寂に包まれていた。 そして、彼女の声だけが彼の耳にとって唯一の音となった。 「嶺河…?」 大地の呼びかけがなければ彼女の腕を掴んで引き寄せていたかもしれない。 兄の声が本能よりも一瞬早く、分別という理性を取り戻す機会を与えてくれたようだ。 彼女はまだ仕事中なのだ。こちらの都合でプライベートな用件を話すために、彼女に声をかけるようなことは慎まなくてはいけない。 嶺河は無理矢理に彼女から視線を剥がすと、意識を目の前の男性に向けた。 しかしその後の会話はすべて頭の中を素通りし、まったくと言えるほど何も記憶に残っていなかった。 彼らが去ったあとも、嶺河は会場内を移動する女性の後姿を目で追い続ける。 どこにいても、彼の視線は吸い寄せられるように彼女を捕らえたまま決して離れることはなかった。 「知り合いか?」 執拗なまでの弟の視線の先を眺めながら、大地が怪訝そうな顔をする。 「ああ。いや…正確にはそうじゃない」 額にかかる前髪を軽く指でかき上げながら、少しイラついたように答える弟の様子を不思議そうな目で見ながら、大地は肩を竦めた。 「よく分らんな。あっちはまったく知らない素振りのようだったが」 「名前も知らない。前に一度会ったことがあるだけだから」 「ほぅ…ま、綺麗な女性ではあったなぁ」 そう言って会場の反対側の隅で歓談している男性達に目をやるが、側に控えているはずの彼女は大柄な男性陣に囲まれているためか、ここからではその姿を確認することはできない。 「兄貴…」 「ん?」 「一目惚れってあるんだな、信じたことはなかったけど」 嶺河が独り言のようにボソリと呟く。 「しかし、お前らしくないセリフだな。」 面白がるような兄を横目で見ながら、嶺河がため息を漏らした。 「ああ、自分の口からこんな言葉が出てくるなんて、我ながら信じられないよ。でも、僕にとって特別…そう、彼女は特別なんだ」 「おいおい、えらくご執心だな」 「ああ。逃さない。絶対に手に入れてみせる」 真顔でそう言い切った弟を驚きに満ちた目で見つめる大地に、嶺河がいつもの少しシニカルな笑顔を向ける。 「今回はかなり、真剣なんだ」 突然の本気宣言に驚き固まったままの兄を尻目に、ポーカーフェイスの弟は彼女の元へと歩みだす。 「全く、アイツは熱いんだか冷めてるんだか…」 先ほど見た、彼女を見つめる嶺河の熱っぽい眼差しを思い出した大地は思わず苦笑いを浮かべる。 自分と違い、常に周囲に取り巻きの女たちの影が途切れることのなかった弟だが、いつもどこか冷めた様子で相手に接していたのを見てきた。 来る者を拒まないが去る者も追わない。 特に女性に関して、執着心など持ち合わせているとは思えないほどあっさりとした関係しか見たことがなかった。 そんな嶺河を見慣れていただけに、今日の弟の態度に驚きを隠せなかった。 「アイツもやっと運命の女に巡り会えたってことか…」 思わず緩みそうになる口元を片手で覆い平静を装うが、その瞳は愉快そうに輝き、彼女に近づく弟の姿を追っている。 あの嶺河がついに墜ちたか。 これで未だ未練たっぷりな過去の女たちが、どれだけ泣きをみることになるのか…怖い気がするな。 そんなことを考えながら、大地もまた次のゲストへの挨拶のためにその場を後にしたのだった。 HOME |