「おはよう、お寝坊さん」 耳元で囁く温かな唇を感じて、真音はうっすらと目を開けた。 「まだ眠そうだね」 そう言って笑うと、嶺河は背中を抱いたまま彼女のうなじへと滑らせた唇を、柔らかな肩の窪みに押し付けた。 部屋に漂う二月の朝の空気は凛と冷たいが、ベッドの中は寄り添っている二人の体温でしっとりと温かい。 「あなたがいけないんだから。昨日だって…」 真音は腕の中でまだ気だるさの残る身体をゆっくりと動かして彼の方に向き直ると、上目遣いに顔を見上げた。 入院から2ヶ月がたち、ようやく通常の生活をしてもよいという許可が出たのは昨日のことだ。骨折していた右腕のギプスが外れ、残っていた包帯も取れて、ようやく両腕が自由に使えるようになった。 「少しずつ体が丸くなってきているみたいだ」 嶺河はそう言うと、彼女の剥き出しの腰を撫で、お腹のあたりに手を這わせた。 「あっ…」 背が軽く撓り、口から小さな喘ぎが漏れる。妊娠してからというもの、肌はそれまで以上に敏感になり、ほんの少しの刺激にも思わぬ反応を返してしまう。 「お願い、もう許して…」 久しぶりに愛し合った余韻は、記憶にあるよりもはるかに甘美なものだった。 最後に身体を重ねたのは、彼女が東京からここに戻ってくる前のことだ。2ヶ月以上も彼女を求め続けた飢えた体は、自分の意思に逆らい何度も彼女に挑もうとする。 「無理をしなければ大丈夫だって、医者も言っていたから」 彼はそう言うと、真音が敏感に感じる胸の先を口に含んだ。 昨日病院に行く真音に付き添っていた嶺河は、診察が終わり、彼女が身づくろいをしている間に密かにそのことを医師に聞いていたのだという。 「そんなことまでお医者様に聞いたの?次回の検診のときに恥ずかしくて、どんな顔でお会いすればいいか分からない」 真音は真っ赤になり抗議の声をあげたが、それもすぐに喘ぎに変わる。 「胸も少しずつ大きくなっているし、前よりも色が濃くなってきたね」 彼の指先が胸の頂を擦るたびに、自分ではどうしようもないほどの刺激が身体を走り爪先まで伝わっていく。ゆっくりとした動きで彼が入ってきた時も、心地よい圧迫感に思わず彼を締め付けてしまうほどだった。 寝起きの呼吸に合わせるかのように、ゆったりと彼が腰を揺らす。 労りの込められたその動きに、時間をかけて愛された彼女は緩やかに昇りつめ自分を解放していく。 やっと自分の帰る場所を見つけた。 そんな思いで彼を見つめる真音の気持ちは、不思議なほど穏やかに満たされていた。 これからは嶺河を失う恐怖に苛まれることはない。彼が手を牽いてくれるのならそれに自分を預けていくことに、もう迷いはなかった。 脱力して倒れこんだ嶺河の下で彼女が身じろぎする。 「ああ、ごめん、重かったんだね?」 ゆっくりと体を引き、片肘をついて体を起こした彼は、寝返り様に真音を抱き上げて自分の胸の上に乗せてしまう。 「今は大丈夫だけど、もう少ししてお腹が大きくなってきたら…潰さないように気をつけてね」 服を着ているとまだそんなに目立たないが、こうしていると着実に彼女の身体が変わり始めているのを実感する。 「あとどのくらい、こんなことができるんだろうね」 自分の体の上に広がる彼女の髪を梳きながら、嶺河は聞くともなしに呟いた。 「そのうちにお腹が邪魔して、キスもできなくなるかもしれないわよ」 そう言って真音は悪戯っぽく笑った。 「では、今のうちに…」 ふざけて逃げようとする彼女の肩を捕まえた嶺河の唇が彼女の唇をかすめ、そのまま首筋へと下りてくる。 掻き抱いた嶺河の頭越しに、窓の外に雪が舞っているのが見えた。 「雪か…」 真音の指差す方を振り返り、嶺河は呟いた。 「もしもあの日、あの季節はずれの雪が降っていなかったら、今頃私たちはどうしていたかしら」 ガラス越しに、降る雪を見つめながら、腕の中の真音が小さく吐息を漏らす。 「たとえあの時、雪が降っていなくても僕たちは出会っていた。きっとどこかで…そう信じたいな」 そう呟きながらも、彼は思った。 あの雪の日に彼女と偶然出会えたことは、運命の悪戯だった。 捕まえたと思えば消えてしまう。 彼女はまるで蜃気楼のように儚く、幾度も彼の手の中をすり抜けていった。 何度も真音を失う悪い夢をみた。それでも彼女を求める心を止めることはできなかった。 そして今、この腕の中の存在を確かめるように、強く抱きしめている自分がいる。 彼女がここにいる幸運。 それは春の雪のもたらした、奇跡なのかもしれない。 「きっとどこかで出合い、恋に落ちていた。そしてやっぱり結ばれて幸せになっていくんだ」 そう、何度同じ人生を歩んでも、きっと僕は君を見つけ出すだろう。 たとえそれがどんなに困難なことでも乗り越えていける。 真音、君が側にいてくれるなら…。
それは春の雪が織りなす、約束された幸せな幻影。 ― a snowy mirage ―
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