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雪のミラージュ  26


翌日の午後になってから、真音は一般病棟に移った。
まだ絶対安静の状態が続いているため、自分ではベッドから起き上がることさえできない彼女に付き添い、世話を焼く嶺河を真音は複雑な思いで見ていた。
ここに帰ってきてからというもの、あんなに辛い思いをして彼から遠ざかろうと努力したのに、すべてが違う方向へと進み始めてしまった。
こんな形でとはいえ、お腹の子どものことを知られてしまった以上、どうやって彼との距離を置けば良いのだろうか。

嶺河は毎日面会ができる時間は真音と一緒に病室で過ごし、時間の終わりとともに彼女の別荘へと帰っていった。
側にいる間、彼は子どものことについて一切真音を責めるようなことは言わなかった。ただ時折彼が穏やかな目で彼女のお腹を見つめ、微笑んでいるのを見ているとどうしようもなく切なくなってしまう。
彼から子どもを取り上げるつもりはなかったものの、結果としてすぐに妊娠を知らせなかったことは、それに近いくらい愚かなことに思えてならなかった。

瞬く間に日がたち、火曜日になった。すでに夕方も遅く、外は薄闇になっている。
彼が今日まで休暇を取っていることは聞いていたが、そろそろ東京に帰さなくてはいけない。ただでさえこの数日、彼女の世話に明け暮れて満足に休むことさえしていない嶺河に、これ以上甘えることはできなかった。

「そろそろ東京に帰る用意をしたほうがいいわ。明日も早いんでしょう?」
真音は窓の外を見つめながら話しかけた。
嶺河は彼女の横でイスに座って本を読んでいる。
彼の方を向いて話かけることができなかった。
彼に見つめられたら、もっと側にいて欲しいと思っている気持ちを見破られてしまう。

「大丈夫、心配要らない」
彼は一言そう答えると、再び読みかけていた本に視線を落した。そして面会時間ぎりぎりになっても病室から立ち去ろうとはしないばかりか、翌日に必要なものをメモに書きとめていたのだ。

「今日までお世話になりました。そろそろあなたはお仕事に戻らないといけないでしょう。もう車椅子でなら動く許可もいただいたことだし、私のことなら大丈夫だから。あなたはあまり遅くならないうちに東京に帰ってくださいね」

本気で心配そうな顔をする真音を横目で見ながら、彼は吊るしてあったコートを取りバッグを手にした。
「大丈夫だよ。今まだ休暇中だ。副社長に、兄さんに相談したら、当分帰ってくるなと言われたよ。わが子の一大事という時に、仕事のために側を離れるなんてもってのほかだとね」
そう言うと、彼はベッドの上の真音を軽く抱き寄せた。

「メリークリスマス。ちょっと遅くなったけど」
真音は思わず病室に置いてあるカレンダーに目をやった。
そうだ、今日はクリスマス。
ここ数日、あまりにいろいろなことが起こり過ぎて、すっかり忘れてしまっていた。
今年のクリスマスを彼と過ごすことはないと思い込んでいたせいで、何の用意もしていない。ましてやその時には、まさかクリスマスを病院のベッドで迎えるとは思ってもいなかったのだから。

「せっかくのクリスマスなのに、こんなことになるなんて。本当にごめんなさい。それに私…あなたへのプレゼントも準備できなかったわ」
「プレゼントならもうもらったよ、一生ものを、ね」
嶺河はそう言うと、嬉しそうに真音のお腹に視線を走らせた。
「でも実を言うと、もう一つ欲しいものがあるんだ」
彼はバッグの中を探り、一通の封筒と小さな包みを取り出した。そして右手が使えない真音の代わりに自分でその包みを解き始めたのだ。
中から出てきたのはベルベットの小さな箱。それを開けると、固く握り締めた彼女の左手を引き寄せた。
「僕の希望としては、できればプレゼントは母親とセットでいただきたいんですけど。どう?」
長い指が器用に彼女の手を開かせたと思った時には、すでに彼女の薬指に細い銀色のリングが光っていた。
「でも、でも…」
戸惑いを隠せない彼女に、嶺河が意地悪く微笑みかける。
「抜きたくても抜けないでしょう?その手では」
真音の右腕は肩の脱臼と亀裂骨折のためギプスで固定されていて、肘が曲がらない。左手の薬指にはまる、サイズのぴったりした指輪を抜き取ることは至難の業だ。
「こっちはその右手が動くようになるまで待っているから」
そう言って彼が封筒の中身をひらひらと翳した。中から現れたのは半分だけ、彼の方だけに署名捺印された婚姻届が一通。

真音は信じられないという顔で彼を見た。
「私は、あなたと結婚しようなんて思っていないわ」
彼女は俯き、小さな声でそう呟いた。
「でもきみのお腹の中にいるのは、他でもない僕の子どもなんだ。僕はその子を守る義務と父親を名乗る権利がある」
そう言うと、彼は真音の顎を指で押し上げ顔をのぞきこんだ。
「だからといって私と結婚してくれなんて言わないから、安心して。この子は私がここで育てます。あなたはできれば…認知さえしてくれればそれ以上は何も望まないわ」
「安心?」
嶺河は、顔を背けようとする彼女の頬を両手で挟み自分の方を向かせると、怒りを湛えた目で彼女を見据えた。
「君は僕に週末と夏休みの間だけのパートタイムの父親になれと、そう言うのか?僕は君以外、いや君とお腹の子以外は欲しくない。何でそんなに僕を遠ざけようとするのかが分からない。一体僕たちの間に何の問題があるというんだ…?」

真音は一瞬躊躇するような表情を浮かべたが、すぐにそれを隠したのを彼は目ざとく見ていた。
「でもあなたには家や会社を守る責任が…」
そう言いかけた彼女の唇を指先で押えると、彼は事も無げにこう言った。
「大丈夫。僕は朝倉の家や仕事にちゃんと責任を持っている。真音は何も心配しなくていい。誰にも僕たちのことを邪魔させない。君は僕が守るから。ただ君は僕の側にいてくれれば、それでいい。それが僕の望みだ」

なおも何か言いたげな彼女の唇を、やわらかな口づけで塞ぐ。目を閉じた真音の肩が小さく震えているのを感じた嶺河は、そっと彼女から離れると耳元で囁いた。
「僕にこのプレゼントをくださいますか?サンタクロースさん?」
開かれた彼女の黒い瞳を潤んだ膜が包み、溢れた涙が目尻から零れ落ちた。

「一緒に幸せになろう。愛してるよ、真音」
彼女は左手をゆっくり持ち上げると、手のひらを彼の顔に近づけた。そして親指で優しく頬を撫でると、いつもの柔らかい笑顔で嶺河に微笑みかけた。
「今年、世界中で一番幸せなクリスマスプレゼントをもらったのは私かもしれない。一生忘れられない、宝物のような言葉だわ」
彼女はそう言うと左手の薬指に光る指輪に唇を寄せて囁いた。
「ありがとう。私もあなたを…愛しているわ」


数日後、病院が年末の休みに入るため若干早くに退院を許された真音は、嶺河に付き添われて別荘に帰ってきた。
まだ当分は安静にしなくてはならないため東京へは戻れず、当面はここで静かに過ごす生活になりそうだ。
帰宅した早々、嶺河に抱えられたまま玄関からベッドに直行となった彼女は、久しぶりの我が家の窓から見える景色をぼんやりと眺めていた。

「少しだけでいいから、外に出たいのだけれど」
入院中の荷物が入ったボストンバッグを提げて寝室に戻ってきた嶺河にねだってみる。
「でもまだ動いてはいけないとお医者さんからも言われているだろう?それに外は寒すぎる。当分はサンルームで我慢するんだね」
言葉では渋りながらも、彼は真音を再び抱き上げると階下のリビングに運んでいった。それまでの過保護ぶりから、もっと厳しく言われるかと身構えていた彼女は少し拍子抜けしたが、それよりも彼の目が楽しそう光ったのを不思議そうな顔で見つめた。

リビングを横切りデッキに張り出したサンルームに入ると、そこに見慣れないものが置いてあるのを真音が見つけた。
「まぁ、揺りいす…?」
真音は一瞬驚きの表情を浮かべたが、これが企みの正体であると気づくと、彼の顔を見上げて目を輝かせた。
そこに彼女を座らせると、軽く肘置きを押えて椅子をやさしく揺らす。
「これは僕からのプレゼント。お腹の赤ん坊へのね」
ゆっくりと動き始める椅子に揺られて、彼女は満足げなため息を漏らした。
「このまま少しここで揺られていてもいいでしょう?すごく素敵な気分だわ。ありがとう…パパ」

しばらく片づけをしてサンル−ムに戻ってきた嶺河は、椅子に座ったまま幸せそうな笑みを浮かべてまどろむ真音の姿を見つけた。冷えないように毛布をかけ、その場で彼女の寝顔を見つめる。
クリスマスのプロポーズから数日、やっと彼女も少しずつではあるが結婚という現実に向き合う気持ちがでてきたようだ。名実共に彼女を自分のものにできる日も、もうすぐだろう。

そっとまだふくらみのないお腹に触れてみる。
彼女の胎内の子どもの存在を自分の目で確かめた、あの瞬間は一生忘れられない。
念のため、退院前に受けた超音波診断で初めて見た赤ん坊の映像。小さな体から発せられる力強い心音が聞こえた時には、感動の余り涙が出そうになった。

「パパ…か」
思い出すたびに頬が緩んで仕方がない。
体の状態が落ち着くまで、当分彼女と身体を重ねることはできないが、子どものためと思えば我慢できる、と自分に言い聞かせる。今はそれだけが不満といえるかもしれないが、それ以外は概ね満たされた気持ちの中にいた。

嶺河は足音を忍ばせてリビングを出ると、玄関の扉を開けた。
外は木枯しが吹き、小さな粉雪が舞っていた。
あと数日で今年も終わる。そして来年、この風景が初夏を思わせる濃い緑に変わる頃には、彼女と一緒に新しい家族の誕生を見ることができるだろう。
彼はしばらくそこに立ち、外の景色を眺めていたが、真音の呼ぶ声にリビングへと戻って行った。

高原の冬。夜の訪れは早い。
薄闇が辺りを包む頃、窓からこぼれる温かな明かりが深々と降り続ける雪を銀色に照らし続けていた。




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