真音が事故に遭い、病院に運ばれたという一報は、思わぬところからもたらされた。 警察から別荘の管理事務所に問い合わせがあり、そこから嶺河の連絡先へと電話が繋がっていったらしく、最終的にかかってきた電話を受けたのは兄の大地だった。 連絡の繋ぎが悪かったせいで、嶺河がその報を聞いた時には事故から既に一時間あまり経っていた。 高速を下りたところで大地から急を知らされた嶺河は、急ぎそのまま指示された救急病院へと車を走らせた。 辿り着いた病院の受付で確認すると、彼女は救急センターではなく外科手術室のある棟へと収容されているという。 大きな怪我でもしているのだろうか。 通常は何か特別なことがない限り、交通事故に遭った患者をそのまま他の棟へ移すなどということは考えられないのだが。 彼は妙な胸騒ぎを覚えながら、彼は教えられた病棟へと向かった。 「こちらに西山真音という女性がいると聞いてきたのですが」 フロアの端にあるナースセンターで声をかける。 周囲では、次々と運ばれてくる患者たちに付き添うスタッフたちが慌しく立ち働いている。 「西山さんのお知り合いの方ですね?ご家族ですか?でしたらお願いしたいことがありますので、少々お待ちください」 応対に出た看護師が矢継ぎ早に問いかけた後、書類を持って走る。しばらくするとナースセンターの前で待つ彼の元に手術着を着た医師が近づいてきた。 「西山さんのご家族ですか?」 再度確認される。 「はい。彼女は婚約者です」 躊躇うことなくそう答えた。 「では胎児の父親はあなたですか?」 医師の質問が続く。 「ええ、間違いありません」彼は頷いた。 それを見た医師が手元から一通の書類を差し出した。 「ではこれに署名捺印してください。一緒におられた男性はご家族ではないようですので。肩の脱臼と腕の骨折以外ひどい外傷はないものの、外傷性ショックで流産を起こしかけています。まだ意識は回復していません」 嶺河は医師の手元を愕然と見つめた。 見せられた書類は堕胎に関する誓約書だった。 「我々も最善を尽くしますが万が一の場合、胎児を助けることができないかもしれません。その時は…一応の覚悟はなさっておいてください」 震える手で署名をし、拇印を押す。 目礼すると、それを持って医師は再び処置室の扉の向こうに消えた。 残された嶺河は、呆然としたまま廊下の向こうにある扉を見つめていた。 まだ真音に会って、その存在を確かめることさえしていないのに。自分のまだ見ぬ子どものために最初にしたことが、その命を脅かす誓約の署名とは。 何と皮肉なことだろうか。 嶺河は詰め所の前の長いすに崩れるように座ると、両手で頭を抱えた。 しばらくして、傍らに一人の男性が近づいてきた。 気配に気づいた嶺河が顔を上げると、その男性と目があった。 「あなたは…?」 「朝倉常務。あなたと彼女がお知り合いだったとは」 一瞬、嶺河の目に緊張が走った。 この男は自分を知っている。そして彼も目の前の男性をどこかで見た覚えがある。誰だ? 「ああ、失礼しました。直接お会いしたのは今日が初めてですね。私は片桐拓也、真音さんの、元夫の弟です」 片桐章吾の弟、そして現在は片桐家の当主。そして真音の元義弟。 嶺河ははっと気づいた。大地の結婚式が行われたホテルで、彼女と親しげに話をしていたのは彼だ。そして真音が別荘で襲われた時、彼女の携帯から聞こえてきたのはこの男の声ではないのか…。 「彼女に何をしたんだ?」 立ち上がり、掴みかからんばかりに詰め寄る嶺河を一瞥すると、拓也も長いすに腰を下ろした。 「何も…。話合いの途中で店を飛び出した彼女を、突っ込んできた車から庇っただけですよ。無傷というわけにはいかなかったですがね」 彼の額と手にも包帯が巻かれている。 「驚きましたよ、彼女の口から『赤ちゃん』なんて言葉が出た時はね」 嶺河は無言のまま、彼の隣に腰を下ろした。 「あなたはもうご存知かもしれませんが、彼女…真音さんと兄の結婚生活が破綻してからというもの、彼女は他人に心を開くということを極端に恐れていました」 拓也はそう言うと、所在無さ気に組んだ指を見つめた。 「兄と一緒になった当初、まだ若かった彼女は兄のためにと自分の能力以上のことまですべて背負い込んでしまった。それを上手くこなすことが兄への愛情だと思ってしまったのでしょう。家の事や仕事の付き合い、そして跡継ぎをもうけることも。 でも、兄は彼女にそんなことを望んではいなかった。次第に二人の意見が食い違い始めた頃から兄の目は他に彷徨い始め、次々に相手の女性が変わるような生活にはまってしまった。 でも…私はそれを内心喜んでいたんですよ、孤立した彼女が自分だけを頼りにしてくれることが何より嬉しくてね」 彼は自嘲するように鼻で笑うと、自棄気味な目を嶺河に向けた。 「しかし私は最後の最後で真音さんより家や金を選んだ。今その報いを受けているようなものです。彼女に再会して、昔に戻ってもう一度やり直せるような気がしてここまで追ってきたのですが、彼女の心の中にはすでにあなたがいた。 私がどんなに親身になって尽くしても、決して入れてはもらえなかった領域にいるあなたが憎いくらい羨ましい」 拓也はそう言うと立ち上がり、嶺河に背を向けた。 あたりはいつの間にか薄暗くなり病室の明かりが廊下まで漏れてきている。 「彼女に…真音さんに伝えてください。もう一度妻と話し合ってみます、と」 廊下を歩き去る拓也の足が突然止まった。 見ると彼の背中越しに子どもを連れた女性の影が映った。駆け寄る小さな影を抱き上げる姿を見てそれが家族だと分かった。 遠くから見た女性の面差しが、どこか真音に似ているように思えたのは気のせいだろうか。 それから暫くして、処置室からストレッチャーに乗せられた真音が運び出されてきた。 彼女と一緒に現れた先ほどの医師に、何とか危機的な状態は脱したと告げられた。多分大丈夫だろうが、今夜はこのまま一般病棟には移さず、ここの中にある病室で様子を見るのだという。 個室に移された彼女は、細い腕のあちこちに点滴の針が刺され痛々しい様だった。 車と接触した際に強打したという右腕は骨折のため肩から固定されており、膝にも打撲の後が見られた。 それを見ながら嶺河は、医師の言葉を思い出していた。 『咄嗟に腹部を庇われたようですね。直接の接触がなかったため何とか持ちこたえられたようです。ただかなり出血がありましたから、これからも当分は絶対安静の必要があります』 まだ意識は回復しない。 ベッドに横たわる真音をのぞきこんだ嶺河は、掛けられた毛布の上からそっと彼女の腹部に触れてみた。 生きていてくれた。 それが今の彼の正直な気持ちだった。 もしかしたら一度もその存在にまみえることなく、失せていたかもしれない小さな命にこの手が触れていることに感動を覚える。 こんな状態の彼女を目の前にしているのに、手のひらで感じる体温は不思議なくらい温かなものだった。 しばらくすると、身動きした彼女が苦痛を訴えて呻いた。 まだ意識がしっかりしていないのか、何かを捕まえようとするように身を捩りながら、動かない右手を上げようとしている。その手を軽く握ると弱々しいながらも彼女が握り返してきた。 「真音、真音?」 彼の呼びかけに薄く目を開くと、彼女は一言だけ呟いた。 「赤ちゃん、は…?」 「大丈夫、助かったよ」 彼の言葉が耳に届いたのか、真音は小さく微笑むとまたゆっくりと目を閉じた。 握ったままの手から力が抜けるのを感じながら、嶺河は側にあった椅子に倒れこむように座った。 長い一日だった。 気がつけば、すでに日付が変わろうとしている。 背もたれに体を預け目を閉じると、安心したせいか睡魔に襲われる。 耳の側に真音の穏やかな寝息を聞きながら、嶺河は彼女の右手をしっかりと握りしめたまま眠りに落ちていったのだった。 HOME |