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雪のミラージュ  24


八ヶ岳の別荘に戻ってきて一週間がたつ。
身体が重く感じられて動くのが辛い。
それに加えて少し前から始まった悪阻にも悩まされていた。
東京にいた時に診察を受けた医師から強く促されたが、まだ産婦人科の受診もできていない。
「せめて食事くらいは、ちゃんと摂らないとね」
そうは思っていても、いざ何かを口にしようとすると吐き気に襲われる。一口二口無理やりに飲み込んでも、すぐにもどしてしまうのだ。そんなことを繰り返しているうちに食べるどころか匂いも我慢できなくなり、食事の準備をすることすら満足にできなくなってしまった。

何もしたくない…。

彼女には分かっていた。この無気力さは妊娠のせいだけではない。
嶺河との別離を決めたことが気持ちまで蝕んでいるのだ、と。

自ら望んだこととはいえ、彼の痕跡を消し去ることの痛みは軽くはなかった。
この別荘の、どの部屋にも彼と過ごした時間の記憶が刻まれている。
一緒に食事を作ったキッチン、夕闇にグラスを傾けたリビング、そして飽きることなく互いを求め合ったベッド。
そして何より自分の身体に宿った彼の血を受け継ぐ子供が、無言で彼の存在を訴えてくる。
嶺河から遠ざかろうとすればするほど、お腹の赤ちゃんは自分の存在を主張するかのように彼女の身体を揺さぶるのだ。
会えない、もう会ってはいけないと思えば思うほど彼に会いたい気持ちが募る。
今では毎朝夕に彼からかかってくる電話だけが、真音の心のバランスを支えているようなものだった。
皮肉なことだが、彼を諦める決心をしてから初めて真音は彼に守られていたいと思うようになっていた。
ないもの強請りなのかもしれないが、嶺河が側にいてくれれば他にはなにも欲しいものはなかった。
叶わない願いだと思いながら、毎夜一人横たわるベッドの中で彼の温もりを求めていた。


金曜日、真音は数日振りに外出をした。
冬場はただでさえ、突然の雪や道路の凍結にみまわれて、身動きがとれなくなることも少なくない。天気がよい間に雑用や買い物を済ませておこうと思い立ち、久しぶりに人ごみの中へと出掛けた。
それに今日はもう一つ特別な用事があった。
数日前に拓也から連絡があり、どうしても彼女に会って話したいことがあると言って来たのだ。
この前のことが頭をよぎり、一人では会いたくないと言うと、ならば人の多い場所で、と町の中心部にあるカフェを指定してきたのだ。時間も昼間だっので、そこでなら会っても良いと答えた。
拓也に会うのが気まずいという思いが拭い去れたわけではないが、それでも了承したのは、逼迫した声とこの前漏らした言葉の真相、そして何より自分自身が彼に問いただしたいことがあったからだ。

街はクリスマスムードにつつまれ、ウインドウのディスプレイも赤と緑を基調にした華やかなデコレーションが目に付く。
スキー場から遠いため、冬場はシーズンオフに近いこのあたりも、クリスマスだけは甘いムードを楽しむために多くの恋人たちがここを訪れる。地元の人たちがみなそれぞれに街路樹や建物に思い思いのデコレーションやイルミネーションを飾りつけ、道行く人々の目を楽しませるからだ。

待ち合わせ場所のカフェに着くと、すでに拓也が来ていた。
コーヒーを注文しかけて慌ててオーダーをココアに変えた彼女を、拓也は一瞬不思議そうに見た。
「コーヒーにしないのかい?あんなに好きだったのに」
「ええ、ちょっと…」
知らない人から見ればまだ身体に目立った変化は出ていないのだから仕方がないが、それでもできるだけ体調には気を使っていた。カフェインはよくないとマタニティー雑誌に書いてあったのを読んでからは、好きだったコーヒーもきっぱりと止めたのだ。

「まずあなたのお話をうかがった方がいいのかしら?それとも先に私の質問に答えてくれる?」
湯気の立つココアに唇を寄せながら切り出した。少しミルクの香りが鼻につくが何とか飲めそうだ。何か口に入れないと、こんなところで吐き気に襲われてはたまらない。
「僕が先に話してもいいかい?」
真音が頷くと、彼は視線を落して、カップに添えた自分の手を見ながら話し始めた。

「僕と妻が離婚を考えていることは…話したと思うけど、あれは嘘ではない。僕たちの間には結婚した当初からいざこざが絶えなくてね。特に子どもが生まれてから彼女はそっちにつきっきりになっていたし、僕も継いだばかりの兄さんの会社を立て直すことに忙殺されてすれ違いが続いたんだ。彼女と僕は相手の非を責めることに手一杯で、そのうちにお互い何を考えているのかさえ分からなくなってしまった」
そう言うと、彼は苦々しげな顔で一気にコーヒーを飲み干した。

「周囲に押されて去年二人目の子どもをもうけたけれど事態は一向に良くならなくて、むしろ僕から彼女と子どもたちを遠ざけることになってしまったんだ。今、妻と子どもたちは都内の僕のマンションで、そして僕は鎌倉の…片桐の実家にもどって別々に暮らしている。もう元には戻れないだろう」
「そんな…」
真音は戸惑いの表情を浮かべて彼を見つめた。
葬儀の席で拓也が妻に見せた労りに偽りはないと思った。彼になら夫の残したものをすべて託せると思ったからこそ、自分は何も言わずに家を出たのだ。
身勝手な夫が愛人の身体に残していった子どもを託したことは、思った以上に彼の重荷になってしまったのだろうか。

「それで、奥様は何ておっしゃっているの?」
真音は無意識にスプーンでカップの中を掻き混ぜながら、彼の返事を待った。
「彼女は…妻は離婚には難色を示している。子どもの親権の問題もあるからね」
拓也はそう言うと深いため息をついた。

「もし、そうなったら…子どもたちはどうするつもりなの?」
彼の出方をうかがうように真音が問い続ける。
「もちろん、二人とも僕が親権者になれるようにするつもりだよ。あの子達は僕の子どもだからね」
「二人とも?…」
真音は、はっとしたように彼を見上げた。
「そう、二人とも、だ」
「でも…まさか、あの子は…」
青ざめた真音の目を見据えながら、拓也が断言した。
「そう、初めから兄さんの子どもなんていなかったんだよ、真音さん。あの子は…僕の子どもだ」

複雑に絡まっていた糸がほどけるように、彼女の頭の中で次々と疑問が解かれていった。
夫が不妊の検査を受けたがらなかったこと、彼女が病に倒れた時にその事実をあまりにも容易に受け入れたこと、何人も噂があった愛人たちがだれひとりそういう話題に上らなかったこと、章吾が死ぬまで子どもの存在が浮かび上がってこなかったこと。
そして…自分自身が今妊娠しているということ。

この十数年、彼女を縛り付けていた呪縛はこんなにあっけないことで解けるものだったのだ。
真音はしばらく呆然と拓也の顔を見ていたが、急に立ち上がるとバッグとコートを掴んだ。

「帰ります。あなたのお話はわかったわ。でも一つだけ言わせて。あなたと奥様は私だけでなく周囲の人たちも欺いた。そしてその結果一番大きな代償を払わされるのはあなたの子どもたちなのよ。もしあなたたちに我が子を思う気持ちがほんの少しでも残っているのなら、もう一度よく話し合ってみるべきだわ」

真音は拓也の制止を振りきって店の外に飛び出した。
一瞬、目の端に飛び込んできた車の影が写った。
そして誰かに抱えられたような気がした次の瞬間、鈍い音と共に身体に痛みが走った。
周囲のざわつきと、彼女の名を呼ぶ声が遠くに聞こえる。
真音は無意識にお腹を庇うように身体を丸めてうめき声を上げた。
「お願い、赤ちゃんが…」
誰かが身体を起こそうとしているが身体が動かせない。手足がどんどん冷たくなって痺れてくる。

誰か助けて…。

遠くに救急車のサイレンが聞こえてきたが、彼女の耳に入る周囲の音はゆっくりと微かになっていった。
『助けて、嶺河さ、ん…』
そこで彼女の意識は途切れた。




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