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雪のミラージュ  23


日付が変わる前に自宅に辿り着いたのは何日ぶりだろう。
嶺河はここ数日の慌しさから開放され、やっと通常の時間に仕事を離れることを許された。
先週からずっと合併の対応に追い回され休むどころではなかったが、ようやく明日の金曜日から週末にまとめて休暇をとることができたのだ。
結局クリスマスなどという浮かれた話題はどこかに消し飛び、気がつけば週末はもうクリスマス・イヴだ。
今年は甘いイベントどころか、信頼回復さえできるかどうかという散々な日になりそうだった。

早い時間に帰宅したところで真音が待っているわけではないのだが、放置している大量の郵便やメール、留守電をとにかく片付けなくてはいけない。
それを済ませてから明日の朝を待って真音の元へ行くつもりだった。
彼女は相変わらず短い会話には出るものの、いつも本題に入る前に電話を切ってしまう。戻るように説得するには直接会って、まず誤解を解くことからはじめなければならないようだった。

郵便受けにたまったDMを捨て、必要な手紙や書類だけを抜き出すと、中を確認しながら選り分けていく。
それが終わると次にたまったメールを確認し、それから留守電に取り掛かった。
メッセージの大概は勧誘や売り込み、そして学生時代の友人たちからの誘いだったが、その中に一件だけ覚えのない連絡が含まれていた。

『○○医院です、お約束しておりました紹介状をまだ取りに来られていないようですのでご連絡させていただきました。検査結果もでております。土曜日も午前中は診察していますのでお時間のある時にお越しください…』

先週の伝言だった。
彼女の体調が良くないことは気付いていたが、病院にかかっていたことは知らなかった。それに紹介状となると何かあったのだろうか。
ナンバーディスプレイで相手先を調べて、そこが近所の医院であることが分かった。明日の朝、真音のところに向かう前に立ち寄って話を聞いた方がよいかもしれない。

真音には明日自分が行くことは伝えていない。
表立っていやがることはないものの、八ヶ岳に帰ってからの彼女の態度はひどく余所余所しく、どこか彼を遠ざけようという雰囲気が見え隠れする。
合併がまとまり、婚約報道が立ち消えになった今も、なかなかそれを受け入れようという気配がみられないことに、嶺河は疑念を抱いていた。
元々彼女は嘘をつくのが下手だ。持って生まれた性分なのだろうが、謀をするとそれを隠して平気な顔をしていることができない。
彼女が何を考えているのかは分からないが、隠し事をしていることは明らかだ。
彼にはそれが気がかりだった。


翌日、開院と同時に受付に向かい、真音の名前を言うと一通の紹介状を手渡された。家族を名乗り、担当の医師に話を聞きたい旨を申し出たところ、受付の女性が一度奥に引っ込み、すぐに診察室に通された。
応対してくれたのは初老の温厚そうな内科医だった。

「西山真音さんのご家族の方ですね」
医師は彼女のカルテを見ながら確認してきた。
「はい」
「失礼ですが、患者さんとのご関係は?」
カルテの未婚欄にチェックが入ってるのを見たのだろう、夫かとは聞かれなかった。
「婚約者です」
ためらいなく答えが口をつく。
「では患者様から容態は聞かれていますか?」
カルテに書き込みをしながら、医師の質問が続いた。
「いえ…多忙でバタバタしていて、ずっと入れ違いになってしまって。彼女は今、自宅の方に戻っていて詳しい話はしていません。これから会いに行くついでに渡そうと思って、紹介状をいただきに来たものですから」
事情をかいつまんで話すと、医師は不思議そうな顔をしたが、それでも促すと真音の状態の説明を始めた。

「…とにかく貧血がひどい。これまでもこういう症状があったと思われますが、これからは特に気をつけないと。母胎だけでなく胎児の発育にも影響がでますからね。私は専門でがないので、はっきりとしたことは言えませんが…」
耳慣れない単語が次々と放たれる。
母胎?胎児?発育…?
「それは…どういうことでしょうか」
「患者さんから何も聞かれていないのですか?」
嶺河の青ざめた顔を見た医師が驚いた様子を見せる。
「西山さんは妊娠されていますよ」


嶺河は車に乗り込むと、しばらく放心状態でシートにもたれていた。手には彼女の名前の入った紹介状と医師が手渡してくれた貧血予防のパンフレットが握られていた。

― 彼女が僕の子どもを身ごもっている ―
迂闊だった。
今の今までその可能性を考えたこともなかったのだ。
確かに以前そういう話が出た時、前の結婚では彼女が子どもを持てなかったと聞いたことはある。しかしその原因が彼女側にあったとは限らなかったのだ。
それが理由というわけではないが、彼女と身体を重ねる時に敢えて避妊を考えなかった。そのことで彼女が何かを言ったことはなかったし、自分自身も彼女と子どもという単語を、頭の中ですっかり切り離してしまっていたのが正直なところだ。
これで真音が急に自分の下を離れようとした理由が分かった。
彼女にしてみれば予想もしていなかった妊娠という事態に、嶺河どういう反応をするのかが気がかりだったに違いない。そこに降って沸いたような結婚話が飛び出してしまったのだ。
二人の関係に逃げ腰な彼女のことだ。「自分が身を引けば」と考えてしまったことは想像に難くない。
「タイミングは最悪だな」
今後二度とこのようなことが起きることはないにしても、真音が身構えてくるのは間違いない。

嶺河は溜息をつきながら、手にした封筒を見つめた。
不思議な気分だった。
これまで自分が子どもを持つなどということは、想像できなかった。
同年代の友人たちが結婚し、次々と父親になっていくのを見ていても、それを自分に置き換えて考えることなどしたこともなかったのに、なぜか今、彼は真音の胎内に宿る赤ん坊を「我が子」と思えてしまう。
彼女の中にいる自分の分身が、二人を決して切れない絆で結び合わせてくれたような気がして、その小さな存在にさえ愛しさを感じてしまうのだ。

暫くぼんやりと手元を見つめていた彼は、気を取り直してイグニッションキーを回した。そしてハンドルを握り締めながら考えていた。
こうなった以上、すぐに籍だけでも入れてしまわなければ。そのためには何としてでも彼女を手元に引き戻さなければならない。
ましてや医師の話では、容態は決して安定したものではないというのだ。できるだけ早く専門医にかかることを何度も勧められた。どういう状態なのかは分からないが、何かあってからでは遅い。
しかし最も問題なのは、いかにして彼女に結婚を承諾させるかだ。
今となっては「子どものため」という大義名分も役に立つか分からない。彼女がそれを素直に受け止めるかどうかも微妙なくらいだ。
真音が近くにいることに気を緩めすぎたことを後悔していた。もっと早くに自分の手中に彼女を留め置く決定的な手を打つべきだった。

嶺河は予定を変え、彼女の元へ行く前に市街地へと車を走らせた。
何としても彼女に「Yes」と言わせてみせる。
彼は頭の中で着々と真音を追い込む計画を練り始めていた。




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