BACK/ NEXT/ INDEX



雪のミラージュ  22


ここ数日、いや正確にはこの3日間で、嶺河を取巻く状況は悪くなる一方だった。
ことの発端は先々週、取引先の招待で役員たちと会食したことから始まった。
その場には朝倉の幹部、相手の会社の社長、役員、そしてなぜか社長の娘という女性が同席していた。
食事の後、数人でホテルの上階にあるラウンジに席を移す途中に写真を撮られたのは気がついていた。朝倉と相手先の合併話が経済誌を賑わせていることは知っていたので、てっきりその関係のマスコミだと思い込んでいたのだ。
まさか自分の婚約報道になるとは思ってもみなかった嶺河がそれに気づき、手を回した時には、すでに週刊誌に載せられた後だった。
今まで散々浮名を流したツケと言われれば致し方ないが、雑誌記者たちに追い回され、行く先々で質問攻めにされた彼の鬱積は今や爆発寸前だった。
社内の調べで今回の報道に朝倉の一部の幹部たちが関っていることが知れると、その怒りは頂点に達した。

「一体どういうつもりでこういうことをしたのか、ちゃんとした説明をしてくれないか」
その日、自室で全身から怒りのオーラを発した嶺河は、写真誌を前に重役たちを詰問していた。
日頃人当たりがよく、滅多なことでは感情を表さない若き常務の、見たこともないほどの憤怒を目の当たりにした彼らは、ただ額に汗を浮かべるだけでまともな返答もできなかった。

「もうそのくらいにしておけ。あとは僕が何とか手を回そう」
横で見ていた大地が取り成すように口を挟む。
それを天の助けとばかりに重役たちが揃って部屋を辞すると、嶺河はソファーにぐったりと深く沈みこんで眉間に寄った皺を指でほぐした。

彼らの考えは見えすいている。
朝倉との合併話にできるだけ有利な形で条件を提示したい相手先と、それに恩を売っておきたい幹部たちが裏で話をつけていたのだろう。事実、彼女との縁談が来ていることは聞かされている。だからこそ情報がリークされても手を打たず、週刊誌が発売される寸前まで嶺河の目を欺くことが可能だったのだ。
その上、大地が妻を迎えた今、そういう策を廻らせる対象が嶺河一人になったことも頭の痛いところだった。

「出版社に圧力をかけて訂正記事を掲載させるか?」
大地が記事の載った雑誌を見ている。
「噂が消えるまで放っておくのが一番いいのは分かっているけど、今回は僕個人だけの問題ではないからな。事実上、合併を取りやめる訳にはいかないなら、どう手を打つか思案のしどころだよ、まったく」
嶺河は今日何本目かも分からないタバコをくわえると、ため息混じりに煙を吐き出した。
実際、彼にとって一番心配なのは、世間の評判でも朝倉の株価でもない。このことが知れたときの真音の反応だった。
今でさえ事あるごとに身を引こうとする彼女が態度を硬化させるのは間違いない。
今は自分の手元に引き止めているが、前に姿を隠し、行方が分からなくなったという経緯があるだけに、また逃げられるのではないかと思うと気が気ではない。
「とにかく今週中にも合併の基本方針をまとめてプレス向けに発表する。その席ではっきりと報道を否定すればいい」

すぐに嶺河は行動を開始した。
その足で相手先の会社に出向き、条件を提示し議論を繰り返した。
会社に戻ってきた時には、すでに日付が変わろうとしていた。今日はこのままオフィスに泊り込み仮眠をとった方がよさそうなくらい、まだ机の上に案件がたまっている。
すっかり予定が狂ってしまった。彼は深い溜息をついた。
真音には昼間のうちにメールで連絡をいれておいた。
無性に彼女の声が聞きたかったが、この時間になると眠っているかもしれない彼女を起こすのは忍びなかった。

翌日、午前の会議を終えた彼の元に一件の伝言が入っていた。
メモには『西山様より、帰宅の旨お伝えください』との短い文章がついている。それを見た嶺河は顔を曇らせた。
「帰宅?」
すぐにマンションに電話をするが誰も出ない。携帯も電源が切られたままだという。
急いで八ヶ岳の別荘に連絡を入れると電話口に彼女の声があった。

「どういうことなんだ?」
「もう大丈夫だから戻ってきたの」
苛立ちの滲んだ声に動じることもなく彼女が答える。
「何で勝手なことをしたんだ!またこの前のようなことがあったらどうするつもりだ?」
ここのところの不機嫌さも手伝って、いつになく厳しい口調になる彼を宥めるように話す真音の声はあくまでも穏やかだった。
「私の家はここなの。もうこの前みたいなことは起こらないよう気をつけるから安心して。あなたは自分のことを第一に考えなければいけないわ。私は一人でも平気だから…心配しないで」
真音はそう言うと、嶺皮の返事を待たずに静かに受話器を置いた。
こうして少しずつ彼の下から離れることに慣れなくては。そっと平らなお腹を撫でながら独り言のように呟いた。

一方的に電話を切られた嶺河は憤懣やる方ないという表情で受話器を叩きつけた。昨日の朝、自宅を出るときにはそんな素振りさえみせなかったのに、突然真音が起こした行動が理解できなかった。

『あなたは自分のことを第一に考えなければいけないわ。私は一人でも平気だから心配しないで』
彼女の言葉を頭の中で反証していく。そして真音のとった行動をその言葉を重ね合わせた時、一つの結論が導き出された。

彼女はどこかであの記事を見てしまったのだ。そしてそれを鵜呑みにしてしまった。

嶺河は舌打ちするとすぐに動き出し、手を打ち始めた。
まず真音に気づかれないように監視をつけ、彼女が他へ動かないように見張らせた。もちろん、彼女にマスコミからの危害が加わらないように手配することも怠らなかった。
どう足掻いてもこの問題が片付くまで東京を離れることはできない。
その間に彼女を見失うことさえなければ、関係を修復することは容易なはずだ。

そして数日後、当初の予定よりもかなり早く合併の発表が行われた。
その席で記者からの質問にあがった一連の報道について、彼はすべてきっぱりと否定した。
その甲斐あってか週刊誌を賑わせたゴシップは徐々にと沈静化に向かい、周囲もそのことに触れることはなくなっていった。
こうして彼はようやく数日ぶりに、群がる記者たちから解放されたのだった。




≪BACK / NEXT≫ / この小説TOP へ
HOME