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雪のミラージュ  21


翌日、嶺河は宣言どおり彼女を東京へ連れ戻した。
朝、真音が目覚めた時すでにベッドに彼の姿はなく、彼女が階下へ下りた時にはすべての手はずが整えられていた。
昼までに工事をする業者が来て水道の凍結防止作業を済ませれば、後はシャッターと鎧戸を閉めるだけで家を空けられるようになっていた。
それらを盾に時間を稼いで彼を説得しようと思っていた彼女の目論みは見事に外れ、真音はリビングのソファーに座ったまま、彼が忙しく動き回るのを呆然と眺めているだけだった。

東京に戻るなら自宅に帰りたいという、彼女の意見も結局は聞き入れられなかった。
どうやら嶺河の中では、自分のマンションが一番セキュリティーの面で安全だという結論に達したらしい。
目に見える形で真音の行動を制限することはしなかったが、それでも彼女が外出するたびに行き先を問いただされたりもした。

彼は真音に対しての独占欲丸出しで、いつでも側に置いておきたいという態度を隠そうともしなかった。いやむしろ、前にここで過ごした時よりも大っぴらに行動に表しているように思える。
その子どもっぽささえ見える態度に苦笑しながらも、彼女は嶺河に甘えることに慣れていく自分を感じていた。


マンションに移って数日が過ぎた頃、微熱が続き、風邪をひいたと思った真音は診察を受けるために近所の病院に出向いた。
すでにインフルエンザが流行する兆しがあるというニュースを見て、早めに風邪を治そうと思ったのだ。
嶺河はここ数日何か立て込んだ予定があるらしく、ひどく帰宅が遅くなっている。疲労の色が濃い彼を心配するが、嶺河は「何でもない、心配しなくていい」としか言わないのだ。
そして今日も「遅くなる。夕食はいらないから」と言い残して出かけていった。

病院についた真音は受付を済ませると、待合室の椅子に座って順番を待った。
その間に、初診ということで手渡された問診表の項目を書き込んでいく。
最後の問いを見た途端に、ボールペンを握る彼女の手が凍りついたように止まった。

― 最終月経はいつでしたか ―

真音はバックからスケジュール帳を取り出すと、ぱらぱらとページを捲り始めた。
10月の最終週あたりに生理が始まった印がマーキングされていた。しかし予定はあちこちに書き込まれているのにそれ以降マークした日付はない。
彼女は震える指を折り数え始めた。
すでに3週間以上遅れている…まさか…。

医師に礼を言い、診察室のドアを出た彼女は呆然と廊下の長いすに座り込んだ。
「妊娠されていますね。今2ヶ月くらいになっているのではないかと思います。ただ貧血がひどいですし、体の状態がよくないですね。私は専門ではないので、詳しいことは一度産婦人科を受診された方がよいと思います。薬も強いものは使えませんから、今日はお出しできません。同時に貧血の治療もしておいた方が良いでしょうから、紹介状を出します。後日取りにきてください」
検査結果を見ながら話す医師の言葉が遠く聞こえた。

妊娠…。
今まで考えたこともなかった。
前の結婚生活でどんなに望んでも叶わなかったことが、なぜ今更、急に現実のものになったのか。
結婚した当初、なかなか子どもを授からなかったが、どちらに原因があるのかを突き詰めるまでには至らなかった。
亡くなった元夫は不妊検査を受けること自体に消極的だったし、彼女自身も、そのうちに何とかなるという淡い期待に縋っていたからだ。
数年後、彼女が身体を病み、妊娠は難しいかもしれないと宣告された時には、もう望みは持たないという夫と、どうしても自分の子供を持ちたいと願う真音の考えの食い違いが諍いの元にもなった。
今思えばそれが結婚生活を破綻させた、すれ違いの始まりだった。
夫婦の溝は深まり、夫は彼女の待つ家に帰らなくなった。自ずと夫婦仲は冷えていった。
そして彼が側に愛人を置いていることが分かった時も、すでに夫婦としての生活を送っていない自分にはそれを非難することすらできないと思い込み、自分を納得させた。
だからこそ、葬儀の席で愛人が夫の子を宿していると知ったとき、やはり自分の側に問題があったのだと思い知らされ、あれほどまでに強いショックを受けたのだ。

嶺河と付き合うようになってからも、面と向かって彼とそういう話をしたことはなかった。
彼が避妊についてどう思っているのかは分からなかったが、少なくとも自分の方は妊娠するリスクは低い、いや、ないに等しいと思っていたのだから。
そう、今日ここで妊娠を告げられるまでは。

震える足で立ち上がると、やっとの思いで会計を済ませ病院を後にした。
彼はこれを聞いてどういう反応をするだろうか。
今までは、嶺河が将来のことを話すたびに曖昧な答えを返してきた。
彼との間に永続的な関係が成り立つとは思っていなかったし、それを望むことをしてはいけないと自分に言い聞かせてきたのだ。
しかしこれで事情は複雑になった。
子どもができれば、容易に彼との関係が切れなくなる。
いつか自分が顧みられなくなったとしても、少なくともお腹の子の父親として彼と一生付き合っていかなくてはならないのだ。

だが、どう彼に告げるべきか悩みながらも、一方で真音は無条件にお腹の中の子どもに愛情がわいてくるのを感じていた。
まさかこの年になって、あれほど望んだ子どもを授かるとは思ってもいなかったのだから。信じられないような幸運に当たったような気さえしてくる。
マンションに帰る途中、立ち寄った書店で躊躇いながらもマタニティー雑誌を手にとった。
今まではまったく縁のないものだった雑誌の、表紙を飾るお腹の大きな女性の姿を自分と重ね合わせてみる。
最初に感じた戸惑いはいつの間にか消え、喜びだけが心を満たしていた。

しかし雑誌を持ってレジへと向かう途中、ふと目に止まった週刊誌を見た彼女はその場に立ち尽くした。
写真誌の見出しに踊る嶺河の名前。
震える手で雑誌を取り、彼の記事が載ったページを見ると、その横には知らない女性の姿があった。記事には婚約間近とも書かれている。相手は取引会社のオーナーの令嬢で結婚を機に二つの会社を合併する目算であるとも。

支払いをすませた真音は家路を急いだ。
不思議なくらい衝撃はなかった。ただ来るべき時がきたと思ったくらいだ。
いずれこの時が来るとは分かっていた。
ただ今日はあまりにもいろいろなことがありすぎて、思考が順序だてて考えをまとめられなかった。
マンションの入口で暗証番号を打ち込みロックを開ける。
ぼんやりしていたのか何度か打ち間違えた。扉の前でもう一度暗証番号を入力し、カギを外してドアを開ける。
中に入ると、そこには馴染みのある空間が広がっていた。
「帰りました」
いつもの癖でつい呟いた言葉。
気がつけば、いつの間にか彼の部屋が自分の生活の場になっていた。

ここを出よう…。
子どものことは暫く黙っておくつもりだった。
彼に知れたら今の結婚話を白紙にもどしてしまうだろう。彼の将来を考えるとそんなことをさせてはいけない。
時間をおいて、時期を見てから相談するのが賢明だ。その時彼が認知に同意してくれればそれでよい。

玄関を上るなり他人事のようにそう考えると、真音はマンションを出る段取りをつけ始めた。
幸か不幸か彼女の私物はそれほどに多くない。3つほどのダンボール箱に荷物を詰めこむと、電話で引き取りを頼む。それを済ませると、小さなボストンバッグを手に彼のマンションを後にした。
嶺河からは昼過ぎに、今夜は帰れない旨のメールが入っていた。
引き止められないためにはその方が都合がよいだろう。
この時間なら、JRを使っても夕方までには別荘に帰り着ける。

真音は嶺河に簡単な置手紙を残した。
『自分の居場所に帰ります…』と。




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