BACK/ NEXT/ INDEX



雪のミラージュ  20


真音の携帯に連絡を入れたときには、まさかこういう事態が起こっているとは思ってもいなかった。
予定より若干早く帰宅できた嶺河は、彼女の予定を確かめようと、何気なく携帯を鳴らした。
今週は土曜日の今日までスケジュールが立て込んでいて、身動きが取れないことが予め分かっていたこともあり、彼女の所には行かない予定だった。
朝、出張先から連絡を入れたときに話題に上った、2週間後のクリスマスをどうするかを確認しようと思ったのだ。
彼の予定では明日の日曜日はほぼ一日空いている。もしクリスマスの時期に彼女が東京に戻ってくるならば、こちらで過ごす段取りをつけておこうと思っていた。ただでさえ予約の取りにくい、クリスマスの時期のことをこれから探すには若干遅すぎるのだが。


何度かコールしたあと、彼女の携帯が繋がる。
「真音?」
呼びかけた瞬間に、電話の向こうから悲鳴のような叫び声が聞こえてきた。
『来て、すぐに来て!お願い!』
何かを言い争うような声がして、ガタガタと耳障りな物音がした。
「真音?真音?すぐに行く。警察に連絡するんだ。この携帯を切るな…」
最後まで言い終わらないうちに、何か言う彼女の声がしたかと思うとそのまま通話は途絶えた。

何が起こったのだろうか。いやな予感がした。
嶺河は財布と携帯を掴むと、すぐにエレベーターに乗ってマンションの地下駐車場へと急いだ。
車に乗り込み、再度彼女の携帯に電話を入れる。
コールしているのになかなか応答がない。電波の具合が悪く、切れそうになる地下から携帯の使える場所に出るまでのほんの数十秒の時間がはじりじりと長く感じられた。

どのくらい呼び出し続けたときだろう、急に携帯が繋がった。
急いで車を路肩に寄せ、助手席に転がる携帯を掴み上げた。
「真音?」
噛み付きそうな勢いで彼女を呼ぶ。
『嶺河、さ…ん』真音の声が聞こえる。何とか無事なのか?
「もう大丈夫なのか?そこには誰もいないのか?」
その問いかけに返ってきたのは、彼女の漏らす嗚咽だった。
「今そっちに向かっているから。いいかい?すぐに家中のカギをかけるんだ。誰が来ても中にいれてはいけない。分かったね」
嶺河はそれだけ言うとひとまず通話を切り、車を走らせた。
渋滞にかからなければ2時間余りで着けるはずだ。今彼女がどういう状態なのかが分からないことで、彼は焦りを感じていた。
これまで別荘との距離を感じたことは何度もある。しかし、今日ほど真音のいる場所が遠いと思えたことはなかった。


真音を休ませ、リビングに戻った嶺河は、テーブルの上に倒れて置いたままになっている二組のカップを見て眉を顰めた。
彼女はいきなりの侵入者に襲われたというわけではないようだ。それに日頃から用心深い真音は、誰でも簡単に家の中に通すようなことはしない。
彼は真音の手首にくっきりと残った痣を思い出して、一人毒づいた。
どれくらい強く掴めばあのような痕がつくのだろうか。赤黒くなったそれは指の形が分かるくらいひどいものだった。あれから彼女の腕や足、身体まで注意深く確認したが、それ以外の外傷は見られなかった。ただ首筋に残る一つの痕跡だけが、彼女の恐怖とショックを物語っていた。

夜中近くになった頃、突然寝室から鋭い悲鳴があがる。
リビングにいた嶺河が階段を駆け上がり、部屋のドアを開けた時、彼女は手で顔を覆ってうめき声をあげていた。
「真音?」
嶺河が震える肩に手を添えたが、彼女は反射的にその手を振り払い、身を守るようにうつ伏せに身体を丸めてしまう。その様子は明らかに軽いパニックを起こしているようだった。

「真音、僕だ、分からないのか?」
何度も宥めるように背中を撫で、振り乱して絡んだ髪を手で梳きながら呼びかけていると、暫くして彼女の緊張が和らいだのが分かった。
身体の震えがおさまり、青白く引き攣っていた頬がわずかに色を取り戻している。ようやくいつもの様子に戻った彼女は、まだぼんやりとした目で彼を見あげた。
「嶺、河さん?」 「大丈夫だ、僕はここにいる」
頬を撫でる彼の手の温もりを感じ、真音の目に盛り上がった涙が目尻から耳元へと流れ落ちる。
「怖かった…」

それだけ言うと彼女は唇を震わせた。
「誰にやられたんだい?」
「……」
「知り合いか?」
彼女は小さく頷いた。
「私が…私がいけなかったの。彼を家に入れてはいけなかったのよ。もっと慎重になるべきだったのに。まさか…あの人がこんなことをするなんて…」
「あの人?」
鋭い嶺河の声に、真音ははっとしたように口をつぐんだ。
それ以上何も語ろうとしない真音に苛立ちを感じながら何度も詰問するが、彼女はただ首を振るばかりで答えようとはしない。
「今は言いたくないの。お願い、もう少し気持ちの整理がつくまで…」
「君は襲われたんだよ。もしかしたら、命に係わるようなことになっていたかもしれないんだ」
それでも頑なに沈黙し続ける真音の様子を見て、嶺河はこめかみを指で押さえてため息をついた。
「分かった…それ以上言わないつもりなら、このまま君をここに独りで置いておくことはできない。明日の朝にも東京に連れて帰るからそのつもりで準備をしておいてくれ」
彼は感情を押し殺した声でそう言うと真音の首筋を指でなぞり、ある一点だけを軽く押さえるとそのまま部屋を出て行った。

一人部屋に残された真音は途方にくれていた。
彼にすべてを話してもよいのだろうか。
嶺河の力をもってすれば拓也を黙らせるくらいは容易なことかもしれない。たとえ片桐が有数のゼネコンだとしても、政財界に太いパイプを持ち、今や多岐の方面に影響力を持つ朝倉がその気になれば、簡単に捻りつぶされてしまうのではないだろうか。

自分のせいで拓也やその妻子、そして何より彼の下で働く片桐の社員たちを路頭に迷わせるようなことはできない。しかし今の嶺河の怒りぶりは、本当のことを知れば何をしでかすか分からないような雰囲気がある。こんなに静かに殺気立った彼を見たのは初めてだ。

真音はのろのろと重い身体をベッドから起こし、立ち上がった。
身体がだるく眩暈さえ覚える。考えてみれば、今日は朝からほとんど何も口に入れていない。何か食べようとすると気分が悪くなるのだ。今も空腹は感じるが、何かを食べたいという気にはなれない。

シャワーを浴びようと一階へ下りた時、リビングで誰かと電話をしている嶺河と目が合ったが、彼は頷いただけで何も言ってはこなかった。
浴室に行き、着ていた服を脱いでいた時、何気なく目をやったドレッサーの鏡に映ったものを見て彼女は小さく呻いた。

首筋に一つだけ残る赤黒い痕。
それが何であるかは近づいてみなくてもわかった。
いつの間につけられたていたのだろうか。そこはさっき嶺河が首筋をなぞったときに一瞬指が止まった場所だった。
熱いシャワーの下に立ちながら、真音は無意識に首筋に手をやっていた。
これがお湯で消せるものならば、どれだけ時間がかかっても洗い流すのに。

明日、彼は自分を東京に連れて帰ると言った。
彼が言い出したら聞かないことはよく分かっている。また朝になれば彼と言い争うことになるのかと思うと気が重い。
そんなことを考えながら長い間、真音は流れ落ちるシャワーの下でぼんやりと佇んでいたのだった。




≪BACK / NEXT≫ / この小説TOP へ
HOME