帰宅してから数日というもの、真音は何も考える暇がないほど忙しく立ち回っていた。 東京から持って帰った荷物を解き、たまっていた雑用をこなすだけで一日が終わる。ひどいときは、気がつけばほとんど一日中何も口にしないで動き回っていた日もあった。 それらを本当に急いで済ませる必要はなかったが、何かしていないと落ち着けない。 自分の素直な気持ちと向き合い認めるのが怖い。嶺河がいないことが寂しくて、それを忘れるために、ただ身体を動かしているという状態だった。 この週末は都合がつかず、嶺河はここに来ない予定だった。 真音は寂しいと思う反面ほっとしていた。 このような状態で彼に会えば、離れられなくなるかもしれない。 会いたいけれど会うのが怖い。 この数日で彼女の気持ちは一層混乱を深め、自分でも持て余すほど不安定になっていた。 外のインターホンから呼び出し音がする。 午後のひととき、久しぶりに時間をとって転寝をしていたところを起こされた真音は、訝しげにモニターをながめた。 まさか嶺河さんが…? 思いついてすぐにそれを打ち消した。彼とは今朝も電話をしたばかりだ。地方に出張に行っていて午後東京に帰ってくると言っていた彼が、今頃こんなところにいるはずがない。 「どちら様でしょうか?」 「真音さん、僕だよ」 「拓也さん…?」 彼女はモニターに写る姿を信じられない気持ちで見た。 なぜ彼がこんなところにいるのかが理解できなかった。 一瞬会うべきか否か迷ったが、木枯しの吹く中で門前払いをくわせるのも躊躇われた彼女は門を開け、拓也を家へと招き入れた。 「ここに来るのも久しぶりだな」 玄関を入るなり、彼は慣れた様子でリビングへと入っていく。 拓也が最後にここを訪れたのは3年前?いやもっと前のはずだ。 片桐の家の中でだんだんと孤立していく彼女を最後まで擁護し、力を貸してくれたのは彼、亡き夫の実弟である拓也だった。 婚家を離れるときに、今後一切片桐の人間とは関りを持たないと決めてから彼とも疎遠になっていたが、それでも懐かしい顔であることにはかわりない。 「帰ってきたことがよく分かったわね」 キッチンでコーヒーを用意している彼女が聞くともなく呟いた。 「何度か来たんだけど、ずっと留守のようだったから」 拓也はそう言うとソファーにどっかと腰を下ろし、彼女が座るのを待っていた。 「奥様は、ここに来ることをご存知なの?」 彼の前にカップを差し出しながら、探るような目で真音が尋ねた。 「いや、言ってはいないが…勘づいているかもしれない」 拓也はコーヒーを一口飲むとカップを元に戻した。 「何かあったの?奥様との間に」 真音は彼の不自然な態度に不審げに眉を顰めた。 「実は…妻とは別れようと思っている」 真音は信じられないという表情で彼を見た。 「あなた…自分の言ってることが分かってるの?まだ小さい子どもだっているのに。下のお子さんは…紛れもなくあなたの子どもでしょう?」 彼の眉間に苦悩の皺が寄る。 「ああ、まぎれもなく僕の子だよ。二人ともね!」 真音は彼が何を言い出すのかと一瞬言葉を飲み込んだ。 「でも、彼女は、奥様は…」 「そう、兄さんの…愛人だった」 拓也はそう言うと大きく息を吐き出した。 「あの頃の僕は、兄さんの持っているものはすべて欲しかったんだ。家も金も地位も女も。そしてあなたもね、真音さん」 真音はショックのあまり言葉を失っていた。 拓也の妻はかつて真音の夫、章吾の秘書であり愛人だった。 二人の関係はかなり以前から続いていたのだが、それが大っぴらになったのは真音が卵巣膿腫を患った直後のことだった。 あんなに望んだ子供を持てなくなるかもしれない。真音のショックは大きく、それが度々夫との諍いの元になった。 結局手術で片方の卵巣を切除した彼女は、章吾に与えられたこの別荘で療養と言う名の別居生活を始めた。 その時の名残の傷は、まだお腹にかすかに残っている。 だがそれを亡き夫が見ることはなかった。 一年のほとんどを海外で暮らす夫にいつも寄り添うのは、秘書である彼女だった。 すでに壊れかけていた結婚生活は、辛うじて拓也のとりなしで対面だけは守られていたようなもので、真音ももうこれ以上夫婦の仲を修復することは望んでいなかった。 どんどん疎遠になる夫との関係は、片桐の家からも彼女を孤立させ、離婚は秒読みと周囲がささやき始めた矢先にあの墜落事故は起こった。 渡航手続きで1日を費やし、やっとたどりついた異国の地で真音が見たものは、夫、章吾の変わり果てた姿だった。その時も、最後を看取ったのは真音ではなく、夫の秘書であった彼女だったのだ。 真音は妻として、夫の死に際を看取ることさえ許されなかった自分の無力さに打ちひしがれた。 たとえそれがすでに終わりかけた関係の中であっても、彼女にとって彼はまだ自分の夫であり、家族であるのに。 そしてそれに追い討ちをかけたのが、夫の葬儀の席での出来事だった。 「真音さん、ちょっといいかしら…?」 喪主として弔問客を迎えていた真音に、親族の一人が耳打ちした。 連れて行かれた控え室には拓也と彼女―今は彼の妻だが―と他に見知った親族が数人座っていた。 二人とも俯き加減で青ざめた顔をしていたが、真音が入ってくるのを見るとまず拓也が顔を上げた。 それからのことはほとんど覚えていない。ただショックで血の気が引き、次の瞬間には真音は意識を失っていた。 次に気がついた時、葬儀はほとんど終っていて、彼女は取り乱したまま何が何だか分からないうちに、夫は煙となって空に昇っていた。 彼女が…夫の愛人が彼の子供を身ごもっていると告げられた時の衝撃は今でも忘れられない。 いや、あの辛さは一生かかっても消し去ることは出来ないだろう。 自分が得られなかったものを易々と手に入れた彼女。打ちのめされた真音には、その辛そうな表情さえ勝ち誇った顔のように見えたのだ。 私は負けたのだ。女としての彼女に。 真音は周囲の説得を受け入れて、残された財産のほとんどを亡き夫の、まだ見ぬ子どもに託して自ら婚家を去った。 彼女の手元に残されたのは、真音が受取人となっていた彼の生命保険とこの八ヶ岳の別荘、そして幾ばくかの片桐の会社の株式だけだった。 その株も真音はすぐに手放した。別にお金が必要だったわけではない。片桐ときっぱり縁を切りたかっただけだ。 その後、風の便りで拓也が彼女と結婚して片桐の当主におさまったということは知っていた。章吾のカリスマ的な求心力がなくなった今、片桐という家と会社を支えるにはそうするのが一番良いことなのだろうと真音は思っていた。 彼は兄の子どもを養子として迎え、実子にも恵まれたというのに、今頃になって一体どうしてそんなことを言い出したのだろうか。 彼女の当惑を見ていた拓也が重い口を開く。 「兄さんが死んで、僕は欲しかったものを手に入れた。片桐の家、兄さんの興した会社、名声、財力…。でも僕には一つだけどうしても手に入らないものがあったんだよ。それが何だか分かる?」 彼はそう言うと射るような鋭い目で真音を見た。 「あなただよ。真音さん…」 伸びてきた腕から逃れるように、彼女が椅子の後ろに回ると彼もじりじりと間を詰めてくる。 「お願いだから正気を取り戻して!あなたには奥さんも、子どももいるのよ」 彼女の背中に固いものが当たる。キッチンカウンターだ。もう逃げ場がない。その時後ろで着信を伝える音楽が鳴った。 真音は素早くカウンターの上にあった携帯を掴むと、通話ボタンを押した。 『真音?』相手が誰かなどと表示を確かめる余裕はなかった。出た電話の相手が嶺河だと判ると、彼女は携帯に向かって叫んでいた。 「来て、すぐに来て!お願い!」 次の瞬間、彼女は拓也に腕をつかまれ携帯を奪われた。 『真音?真音?すぐに行く、警察に連絡……』 通話を切られた携帯が虚しく床に転がる。 彼の荒い息を首筋に感じた彼女は、必死になり両手で肩を押し返し身を捩らせた。 「聞いたでしょう?人がくるわ。お願い、早くここから出て行って!」 彼女がもがきながら、彼の腕を振り切ると同時にまた電話が鳴り始める。それを見た拓也は舌打ちして踵を返した。 「絶対に諦めないから」という言葉を残して。 しばらくして震える手で携帯をつかむと、彼女は通話ボタンを押した。 『真音?』 彼の声を聞いた途端に体中の力が抜けてしまった。 「嶺河、さ…ん」 彼女は携帯を胸に抱いたままその場に座り込むと嗚咽を漏らし始めた。彼が電話の向こうで何かを言っているようだったが、彼女の耳には何も入らなかった。 怖かった…。急に恐怖心が襲ってきて携帯を持つ手がガタガタと震えた。 とりあえずの身の安全を伝えると彼との通話を切った。すでに彼は家を出てこちらに向かっているという。 嶺河が来てくれる。もう安心だ。 それから嶺河が着くまでの2時間あまりをどう過ごしたのか、彼女には記憶がなかった。そして彼の姿を見た途端に安堵したのか彼に縋りついたまま気を失った。 ベッドに運ばれた真音は、意識がないのに彼のシャツを強く握り締めたまま放そうとしなかった。嶺河はシャツを掴んだ指を一本ずつ外し、その強張った手を強く握りながらしばらく彼女の寝顔を見つめ続けていた。 一体何が起こったのか。 彼女が目覚めるのを待って聞き出さなければならないだろう。 嶺河は真音の手首に残る痣を見ながら、彼女が無事だったことに安堵の胸をなでおろしていた。 HOME |