大地の結婚式に出席した後、真音は体調が回復するまでしばらく東京に留まった。 彼女の実家は空き家の状態で、ガスや水道、電気などのライフラインがすべて止められているため、真音の滞在中二人はプライベートな時間のほとんどを嶺河のマンションで過ごしていた。 挙式後、そのまま2週間の予定で新婚旅行に出かけた兄の留守中の仕事をほとんど嶺河が肩代わりすることになったため、いつもに増して多忙を極めた日々だったが、それでも彼はできる限り真音と共に過ごす時間を捻出した。 「お帰りなさい。食事の準備はできているから…」 いつもすべて言い終わらないうちに唇を塞がれてしまい、しばらくは離してもらえない。 彼からやっと逃れたころには濃厚なキスに酔って息が上り、膝の力が抜けおちそうになっていることも度々だ。 帰宅したときから、嶺河は真音を片時も離そうとはせず、食事の間も片付けの最中も常に彼の目は彼女を追い、ことあるごとに彼女を引き寄せてくる。 そして風呂を勧めると、彼女を引っ立てて行き、当然一緒に入れと言わんばかりの態度だ。 この彼の執着ぶりに真音は笑いながら冗談で「そのうちに『トイレにも一緒に行こう』って言い出すのかしら?」と言ったほどだ。 もちろんベッドの中での嶺河は、いつも以上に濃密で情熱的に彼女を求めてくる。 二人は毎夜のように身体を重ね、じっくりと時間をかけて愛し合った。 彼女は彼に思いのままに操られ、極限まで昇りつめては落される。 それを何度も繰り返されていくうちに次第に思考を奪われ、息をするのも苦しくなる。そして本当に狂ってしまうのではないかというところまで彼女を追い詰めてから、やっと彼は真音と自分を解放させるのだ。 その頃になると、彼女の頭の中からはから考えるということは抜け落ちてしまい、ただ感じることだけが残される。 嶺河に与えられる淫らで甘美な刺激に浅ましいほど貪欲に反応していく自分に、彼女は驚きを隠せなかった。 彼に抱かれるまで、真音は自分がこれほど官能的な人間だとは思っていなかった。 今までもまったく快感を得た経験がないというわけではない。 しかし彼との行為はそれまで彼女が自覚していなかった激しい欲求と快楽を呼び覚ました。 真音は自分の中に渦巻く慣れない感覚に翻弄されながらも、嶺河によって自分の中に潜む欲望を次々と引き出されていった。 そして気がつけば彼のところに来てすでに10日が過ぎていた。 その日、「今日は早めに帰る」と言い残して仕事に出かけた嶺河のために夕食の準備をしながら、真音はふと手を休めて考えた。 『もし彼の言うことに従いこのまま東京で暮らすことを承諾したら、この満ち足りた幸せを自分のものにできるのだろうか』と。 彼と過ごす日常の、ごくありふれた一つ一つのことに不思議なくらい幸せを感じる。 朝、彼を会社に送り出した後夕方までゆったりと家事をこなし、夕食の準備をして、帰ってくる嶺河をいそいそと待っている自分に気がつき、何だか妙に可笑しくなるときがあるのだ。 毎日必ず自分の元へと帰ってくる、愛する人を待ちわびる感覚を味わうのはいつ以来だろう。 ― このまま、時間が止まってくれればいいのに ― 真音は思った。 そんなことをできるわけがないと百も承知の上で、それでもそう願わずにはいられなかった。 彼女の幸せはいつも束の間の夢だった。 だから今の幸せもいつかきっと壊れるに違いない。 その強迫観念に駆られた無力感が絶えず心を苛み続ける。 何でもっと強く彼を信じられないのだろう。 真音は意気地のない自分を不甲斐なく思う。 何も考えず彼の腕の中に飛び込めばいいだけなのに、自分にはそれができない。思い切り飛び立つだけの自信と勇気が持てないのだ。 受け止めてくれる腕は、ちゃんとそこにあるのに。 彼女は心の中で呟いた。 私はいつから、こんなに自分の気持ちに素直になれなくなったのだろう…?と。 キッチンで物思いにふける彼女の後ろ姿を、いつの間にか帰宅した嶺河がじっと見つめていた。 片時も離さず愛を囁き続けても、時折真音が見せる哀しみの混じった不安げな表情を消し去ることはできないのか。 彼は小さくため息をついた。 これほどまでに頑なで、複雑な心情を持つ女性は彼女が初めてだ。 今まで付き合ってきた女性たちのほとんどは、彼が耳元で情熱的な愛の言葉を囁くだけで簡単に堕ちたし、女性がそういう反応をするのは普通だとさえ思っていた。 しかし彼女は違っていた。 表面的な言葉で誘っても、真音は靡くどころか反応さえ返してこない。 そんな時の彼女は自分の周りに防壁を廻らせ、その中で自分の考えや行動を抑えつけているのが分かる。 真音の中には絶対に他人を立ち入らせない部分があり、それを他人に曝け出すことはない。そこに踏み込むことが許された時に、初めて彼女の心を自分だけのものにできるのかもしれないが、それはなんと難しいことだろう。 「ただいま…」 嶺河はゆっくりと真音に近づくと、背中から柔らかく彼女を抱きしめた。 振り向いた彼女は一瞬驚いたようにぴくりと震えたが、すぐにいつもの優しい笑顔で彼に応える。 「はい、お土産。ちょっと良さそうなのを見つけたからね」 彼は包みを取り出すと、それを彼女の頬に引っ付けた。 「きゃっ、冷たい!」 中身は冷えたスパークリングワイン。以前、彼女が軽い飲み心地が良いと言った、甘めの銘柄を覚えてくれていたのだ。 「ありがとう」 頬を寄せた彼のコートは初冬の冷気で凍え、その肌蹴た袷からのぞくスーツからは仄かにタバコと彼の香水の香りがした。 「さあ、着替えてきて。グラスを用意しておくわ」 真音はゆっくりと彼の腕を解くとその背中に軽く手を添え、キッチンから押し出した。 彼が名残惜しそうに身体を離し、寝室へと入っていった途端に彼女の顔から微笑が消える。 彼の優しさが体中から浸み込んでくるような錯覚。 嶺河から与えられる安らぎは、なんと心地よいものなのだろう。 幸せすぎて切ないなんて感情を、誰か信じてくれるだろうか。 雪崩れるように彼に向かって傾いていく愛情と、それを何とか止めようとする気持ちの間で小さく心が揺れていた。 このままでは彼のすべてが欲しくなる。 どんどん貪欲に、我侭になっていく自分が怖かった。 やはり自分はここにいてはいけないのだ。 帰ろう。 彼だけが自分のすべてに変わってしまう、その前に。 リビングに戻ってきた嶺河に笑顔を向けようとしたが、振り返った彼女の顔は泣き笑いの表情になっていた。 「何かあったのか?」 それに気づいて不審そうな目をする彼に、溜まった涙を指で拭いながら真音が微笑む。 「ううん…幸せだからよ」 真音はそう言うと彼に背を向け食事の準備に取り掛かった。 彼の探るような視線を背中に感じながら、真音は目を瞬かせ懸命に涙を堪えた。ここを出ていくまで、彼に泣き顔を見せたくはなかった。 数日後、真音は独り八ヶ岳の別荘へと戻って行った。 軽い貧血は残ったものの、体調は悪くなく、自分で車を運転して戻れるまでになっていた。 急に東京を後にすることを決めたことに彼はかなり難色を示し落胆の色を見せたが、真音は別荘の管理が心配で積雪が始まるまでにどうしても帰りたいという表向きの理由で押し切った。 これ以上側にいれば彼と離れられなくなるという本当の理由を心の底に押し隠したまま、彼女はひとりで東京を去ることを選んだのだった。 八ヶ岳に着くとその足で彼女は別荘の管理事務所に立ち寄った。 特に冬季は水道の凍結防止や帰宅後の燃料の確保が必須条件であるこの場所では、長期の不在中誰かに家屋の管理を委託しなくてはならない。 夏場の別荘としてではなく、彼女のように一年を通して居住する目的の住人はほとんどを管理事務所の職員に頼むことになる。 「西山です。今帰りました。お世話になりました」 なじみの職員たちに挨拶して心ばかりの土産を手渡すと、留守中にたまった郵便物を受け取り自宅へと戻った。 「そういえば、西山さんのところ、何度かお客さんがいらっしゃってましたよ」自宅の門を開け、車庫に車を入れながら、職員の男性が彼女に教えてくれたのを思いだした彼女は首を捻った。 この冬、彼女がここで過ごそうとしていることを知る人は多くない。まだ凍結はないとはいえ、寒さの増すこのオフシーズンに訪ねてきたというのは誰なのだろう。 車から降り、荷物を家に運び込むとどっと疲れが押し寄せてきた。 半月も留守をした家の中は寒く冷え切っていて、大して大きくもない家が空虚な空間に見えてくる。 嶺河のマンションで過ごしたあの甘い日々に比べると、ここでの一人の生活は何と寂しくて味気ないのだろう。 真音は何をする気力もないまま寝室に入り、ベッドに身を投げ出した。 見慣れた天井がなぜか今日は冷たく感じる。 明日になれば、きっと気持ちも落ち着いて元の生活に戻ろうという気持ちになれるはず。 彼女は自分にそう言い聞かせると目を閉じた。 隣に嶺河の体温がないということが、こんなに寂しいものだと今まで感じたことがなかった。 彼も遠く離れた場所で同じように思っていてくれるのだろうか。 なかなか訪れない眠りに何度も寝返りを打ちながら、真音は自分がした選択が正しいという自信が持てなくなっていることに気がついていた。 HOME |