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雪のミラージュ  17


真音と嶺河が想いを通じ合わせた夏から、季節は秋へと変わっていった。
高原の秋は短く冬の訪れが早い。
今でも朝夕はヒーターがほしいくらいの気温になる日があり、じきに暖炉やストーブが恋しい時期になるだろう。

あの日からというもの、嶺河は都合のつく週末は必ず彼女の別荘に通ってくる。
国内外の出張や会議、パーティーなどに出席する機会が多く、常に自由に休みを取れる立場にない彼だが、時間の許す限り真音と共にここで穏やかなときを過ごしていた。

「お帰りなさい」
いつものように、週末の深夜に訪れる彼を柔らかな笑顔と温かい抱擁が迎える。
「…ただいま」
嶺河は小柄な彼女に目線を合わせるように屈むと、軽く唇を合わせる。
それが合図のように、彼は真音をベッドへと誘いそのまま時が経つのも忘れて愛し合う。いつからかそれが二人の間の決め事になっていた。

日々いつでも逢える距離にいる恋人たちと違い、彼らが一緒に過ごせる時間はあまりにも短い。
その一分一秒を惜しむかのように、二人は互いに求め合う。

「…っく、痛っ」
真音が小さく呻くように呟く。
嶺河の腕の中にいる彼女は、力を入れると折れてしまいそうなほどか細かった。
彼の前から姿を消していた一月余りの間に、真音の身体は見るに忍びないほど痩せてしまった。
柔らかい襞の中に猛りを沈め、その温もりに浸っていた領河は無意識のうちにまだ完全には元に戻っていない真音の上に圧し掛かり、思いのほか強く身体を押え付けてしまったようだった。

「ごめん、きつかったみたいだね」
嶺河はそう言うと、シーツと背中の間に腕を回して、そのまま自分の下にいた真音を抱き起こした。
自分の体の重みで彼女に負担をかけないようにするためだが、身体が繋がったままの状態で抱え上げられた真音は、より深く彼に貫かれ、一瞬苦悶の表情を浮かべる。
真音が首を仰け反らせて身体を揺らす姿を下から見つめながら、ゆっくりとした動きで彼女が感じる場所を探し突き上げ続ける。そのうち彼女が軽く痙攣し始め、自分も限界が近いことを悟ると、彼はより激しく彼女を揺らし始めた。そして先に絶頂を迎えた真音が彼の腕の中に崩れ落ちると、間もなく嶺河も限界を超え、彼女を抱えたまま背中からシーツに沈み込んだ。

彼の胸に身体を預けてぐったりと横たわる真音の、汗で湿った背中を撫でながら領河が呟ように言う。
「東京に…戻ってこないか?」
真音はまだ気だるい余韻が残る身体を鈍く動かすと、彼の胸に頬を押し当てたまま微かに首を横に振った。
「真音が帰ってくれば、もっとゆっくりと時間を過ごせるのに」

幾度となく繰り返される彼の言葉を聞いても、彼女の態度は頑なだった。
休みのたびにここに通わされる彼の不平はもっともな事なのだ。もし彼女が頷けば、それで片付くことがたくさんあることは分かっているつもりだ。
しかしそれでも真音は彼の言葉に素直に従うことはできなかった。

今までも暮らしていたのだから、という問題ではない。
今、東京に戻るということは、即ち彼のテリトリーに入ることを意味する。
想いを確かめ合い、既に互いになくてはならない存在と分かっていながらも、彼女はまだ躊躇していた。
嶺河の住む世界と自分の住む世界はあまりにもかけ離れている。
彼の立場上、いずれは相応しい女性と結婚して会社の基盤を固めていくということが、個人という以上のレベルで求められる時がくるのだ。
そしてその女性との間に子供をもうけ、安らげる家庭を作っていくことにもなるのだろう。

温かい家庭、そして子ども…。

彼女には決して手の届かなかい望み。
それを彼と共に叶えることのできる、まだ見ぬ女性にさえ羨望を感じる自分が辛かった。
いつか彼を失った時のことを考えただけで、背筋が凍るような思いがする。
それでも彼女は、去り行く嶺河に泣いて縋りつくことだけはするまい、と強く心に誓っていた。
だがその思いとは裏腹に、彼の近くにいればいるほど自分が弱くなるのを感じてしまう。
そう思うと、彼の側で暮らすことはできなかった。
ここにいれば領河との距離が自分を守ってくれる。そう信じるからこそ、ここから動かないという覚悟を決めたのだから。

真音は悲しげな目で彼を見つめると、顔を引き寄せ、そっと唇を引き寄せた。
片手を滑らせて平らな胸を指先で撫でると彼が体を震わせるのが分かる。

「お願いだから、今は…言わないで」
真音の手が脇腹をかすめそっと彼を弄ると、小さく呻いた嶺河は突然身体を仰向けに押し倒しそのまま一息に彼女の中に入り込んだ。
彼が腰を揺らすたびに、相反するように深く沈んでいく心を振り切ろうとするかのように、真音は彼との行為にのめり込んでいった。


11月の下旬、都内のホテルで大地の結婚式が行われた。
大地は再婚でもあり、披露宴は内輪でという本人たちの希望とは裏腹に、会社を巻き込んだ話がどんどん大きくなり、最終的に招待客1000人以上と言う派手なものになってしまった。
名を連ねる政財界の要人たち、取引先関係者、社内の役員、友人知人、家族、親戚たち。その数と顔ぶれを見た真音は、改めて彼らのいる世界のすごさを実感せざるを得なかった。

ただ、結婚式だけは先にホテルに付設しているチャペルで友人や家族だけを招いて行いたいという、当人たちのたっての願いが聞き入れられ、真音もこちらにだけ参列することにしていた。

荘厳なパイプオルガンの調にのせて花嫁が入場してきた時、真音はかつて自分が歩いた教会のバージンロードを思い出していた。
見るものすべてが輝いていて、未来永劫それが続くような気がしていたあの頃が懐かしい。
神父の祝福の言葉に耳を傾けながら、彼女は過去に思いを馳せていた。そして、祭壇の前に跪く純白のドレスを着た花嫁の笑顔がただ一人の男性に向けられるのを見ながら、共に彼らの幸せが続くことを祈った。


式が滞りなく終わり、晴れて夫婦として教会を出てきた大地たちがライスシャワーの洗礼を浴びている。
大勢の友人たちに囲まれて写真撮影に応じている二人を後ろの方で見ていた真音は、急に軽い眩暈を覚えて側にあった椅子に座り込んだ。
夏以降、崩れていた体調が完全に回復しないまま季節を一つ越えてしまった。特に最近は貧血のような症状がひどく、立ちくらみも頻繁に起こっている。

「具合が悪そうだね、顔色が真っ青だ。少し休んだ方がいい」
いつの間にか側にきていた嶺河は、彼女を抱え起こし、他の者に気づかれないようにそっとホテルの方へと歩き出した。
そして真音をロビーのソファーにかけさせると、鍵を受け取りに行ってくると言い残して踵を返した。

フロントに向かう背中を見送りながら、鉛のように重く感じる自分の体にため息をつく。
この体調の悪さはいつまで続くのだろう。
一度病院で検査を受けた方が良いのかもしれない。

「真音さん?…真音さんじゃないか?」
突然名前を呼ばれ、驚いて振り向くとそこには見知った顔があった。
「拓、也さん…?」
「こんなところで会うなんてね。もう3年…いやもっとかな。兄さんの葬式以来だからね」

真音は久しぶりに会ったこの男性を、当惑のこもった目で見つめた。
もう何年も亡くなった夫の親族には会っていない。まさかこんなところで再会するなどとは思ってもみなかった。

「今日はどなたかの結婚式?」
フォーマルスーツに白いネクタイという披露宴スタイルのいでたちに、真音は聞くともなしに彼に問いかけた。
軽い社交辞令のつもりだった。
「今日ここで朝倉の副社長の結婚披露宴があるのを知っているかい?そこに招待を受けているんだよ」
彼女は軽い驚きを感じたが、それを見せないように用心深く振舞った。今ここで彼に嶺河との関係を悟られるのは賢明なことではないだろう。

「ところで奥様や…子どもさんはお変わりなく?」
真音はわざと話題を変え、彼の注意をそらした。
「ああ、変わりないといえば、そうかな。去年二人目の…子どもが生まれたよ」
拓也のどことなく陰のある表情に気づかないふりをしながら、真音は祝いの言葉を呟いた。なぜ彼は喜んでいないのだろうか。彼にとっては初めての子どもなのに…?

「そろそろ時間だから。一度ゆっくり話したいことがあるから、また連絡するよ」
時計を見た彼がその場を離れた直後、嶺河がルームキーを片手に戻ってきた。
「部屋に送ろう。その後で僕は披露宴に出るから」
そう言うと、彼は真音の腕を支えてエレベーターへと乗り込んだ。

部屋につくと、領河がカードキーを差込み室内へと入る。
長時間続く披露宴を見越して今夜はここに泊まるつもりで、彼と一緒に部屋を取っていたのが幸いした。
やっとの思いでベッドに辿り着くと、靴を脱ぎ裸足になって端に座り込む。
気を利かせた彼が彼女のパールのチョーカーとピアスを外し襟元を緩めてくれた。でればワンピースを着替え、ぴったりとしたストッキングを脱ぎすててしまいたいところだが、さすがに彼の前でそれをするのは躊躇われた。

「さっきの人は?知り合い?」
嶺河が何気なく問いかける。
「ええ。昔の…知り合いよ」
嘘はついていないが真音は何となく後ろめたい気分になった。
何もはぐらかす必要はない。彼が亡夫の弟だと明かしてしまえばそれですむことだった。しかしこれ以上彼に細々とした説明をするのには耐えられないほどの気分の悪さが彼女を襲っていた。
額にうっすらと汗が浮かんで意識が落ちそうになる。

「少し休みたいから。もうあなたは戻って」
青ざめた顔を心配そうにのぞきこんでいた嶺河にそう言うと、彼女はベッドに横たわった。
背中を冷たい汗が流れていくのを感じながら、彼には大したことはないと言い、無理をして微笑みかける。

「もし何かあったら途中でもすぐに知らせてくれればいいから。携帯は電源を入れたままにしておくからね」
嶺河はそう言うと、微かに頷いた彼女を残し、後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にした。


ドアが閉まる音を遠くに聞きながら、真音は顔を枕に押し付け目を閉じた。
ゆっくりと眠りが訪れるまでに、今日のできごとが心の中に去来する。
祝福の歓声、幸せそうな花嫁、空に舞うブーケ、そして…最後になぜか拓也のことが脳裏を過ぎった。
陰のある横顔だった。
彼は今幸せではないのだろうか。
拓也と奥様には幸せになってほしいと思っていたのに…。

消えかかる意識の中、一瞬過去の痛みが彼女を襲ったが、穏やかな眠りがそれを包み込むように広がっていく。
真音はそれに抗うことなくゆっくりと意識を手放すと、深い眠りに落ちていった。




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