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雪のミラージュ  16


一頻り泣いた真音を自分の方に向かせると、嶺河は彼女の顔をのぞきこんだ。
薄明かりの中で見える彼女の瞳はぼんやりと潤み、煽動的だ。

「あなたはまだ、私を必要としてくれるの…?」
彼の欲求が満たされた今、この問いかけは、真音にとって一つの賭けだった。
もしこれが彼の仕掛けたゲームでしかなければ、すでに決着はついてしまったのだ。

「君さえよければ今からでも証明するけど」
冗談めいた口調とは裏腹に、嶺河の顔には焦りの色が見える。
やっと彼女をこの腕に抱いたという充実感も、もはや彼を安心させるものではなかった。
彼女はまだこの状況に戸惑い、心から彼を受け入れてはいない。この問いはそれを如実に物語っていた。

「私は今までずっと、あなたに惹かれていくのが怖かった。だから必死で自分に抵抗して気持ちを戒めて…あなたと距離を保とうとしていたのに…」
そんな私の内側にあなたは易々と入り込んでしまった。そう言いかけて、真音は零れそうになる涙を彼に見せないように身体を捩ると、再び窓ガラスに額を押し付けた。

「ここにいる間は、あなたは私だけを見てくれるかもしれない。でもあなたを取巻く世界に私は入れない。あなたの周りにはもっと相応しい女性がたくさんいるでしょう?才能があって若くて美しくて…私がその方たちと競ってみたところで…」

嶺河は安堵の息を漏らした。
彼女は自分を拒んだのではない。受け入れたからこそ、心変わりを怖れているのだ。
ならば話は簡単だ。
自分が彼女の側から離れなければいい。
逃げる彼女を追いかけるよりも、その方が格段に話が早い。

「言っておくけど、今の僕は倒れそうなくらい君に飢えている。その不足分を補い、且つ欠乏しないように補充し続けるためには、この先もずっと君が側にいてくれないと困るんだ」

嶺河はわざと軽い口調でそう言うと、背後から彼女の腰に腕を回し、自分の体を彼女に擦りつけた。
彼女がはっと息を呑んだのが分かる。
彼はすでにそれとわかるほど高まっていて、自分のおさまるべき場所を渇望していた。

「でも…」
まだ彼女は迷っていた。
彼が欲しているのは、身体の関係だけ?
彼女にはそんな割り切り方はできなかった。
嶺河という男性を知れば知るほど、自分とのことなど一時の戯れかもしれないという思いが頭にこびりついて離れないのだ。

「でも?まだ何か迷ってるんだね。身体はこんなに正直なのに」
彼の手がゆっくりと円を描くように肌を滑り、胸ふくらみに辿り着くと頂は硬くなり、その包み込む感触に真音の身体が震えた。
どんなに拒もうとしても、身体は自然と彼の愛撫に応じてしまう。
彼の誘いに何も考えずに身を任せてしまいたい欲望と、それを拒もうとする理性がまだ彼女の中でせめぎあっていた。

「僕はもう君なしではいられないんだ。たとえ君が僕に愛想を尽しても、僕は君を手放しはしない。君を側に縛り付けておくためならどんな穢い手を使うことも厭わない。…覚悟しておいて」

耳元で囁かれると、熱い吐息が首筋を撫でていく。

「でも…」
あなたの方から離れていった時、私には何が残されるのかしら?
真音の口からその疑問が出る前に、彼の唇が言葉を奪った。

「もう“でも“は無しだ。僕は君がいないとダメなんだ。お願いだから僕を信じてくれないか」
嶺河はそう言うと彼女を再びベッドへと誘い、彼女の身体を味わいはじめた。
彼の指が敏感な部分に触れるたびに高みへと押し上げられるが、昇りつめようとすると彼がそこから離れてしまう。
「お願い、もう…」
限界まで焦らされた彼女が懇願すると、ようやく彼はゆっくりと彼女を貫いた。
満たされた身体が、不安を心の隅に押し遣る。
これで良いのだ、彼女は自分にそう言い聞かせた。
彼の存在で空虚な身体と心が埋められるのを感じる他には、今は何も考えられなかった。
どんなに抗っても、彼を愛しているという事実は変えられない。
そして彼が真音を求めているということもまた真実なのだろうから。

やがて真音の身体は彼の動きに呼応するように揺れだし、より強い快感を求めて動き始めた。
最初は波打つようにゆっくりと、そして興奮が高まると、貪欲に彼を引き込むように深く激しく――。


翌朝、真音は夜明けと共にゆっくりと目覚めた。
こんなに満ち足りた気分で朝を迎えるのはいつ以来だろう。時計を見ようと身じろぎした彼女は、慣れない重みを身体に感じ、顔をしかめた。

嶺河は後ろから彼女に覆い被さるようにして眠っていた。
片腕は真音の腰に巻きつき、もう片方の腕は枕の上に投げ出している。
その上、彼の脚が彼女の太腿を挟みこんでいて、身動きすることもできない。
直に背中に感じる体温が、二人の間に隔てるものがないことを教えているようだ。

「おはよう…」

頭の上から聞こえる嶺河のくぐもった声が眠たげで、思わず真音は微笑んだ。
もう思い悩むことはすまい。
彼が自分に注いでくれる愛情が本物ならば、今は喜んでそれを受け取ろう。
そして…将来彼の愛情が途切れたときには、自分からきちんと身を引こう。
過去の痛みは苦しみと同時に未来への教訓も与えてくれた。それがある限り、私はきっとこれからも自分を守っていくことができる。

「おはよう、今日もいい天気になりそうよ。ほら見て」
彼女が指し示した東側の出窓に朝日が差し込んできた。
ゆっくりと昇る太陽から降り注ぐ光の帯が、窓を通って室内を照らしだす。
その時、出窓のカウンターが眩い輝きを放った。
一筋の光源が、幾筋もの光を乱反射させて小さな光の球を作っている。

「あれは…?」
目を凝らした嶺河の視線の先にあったのは、いつか彼が真音に手渡した小さなクリスタルの天使像だった。
「持ってきていたの」

『いつでもあなたのことを思い出せるように』

真音が彼の元を離れる決心をした時、彼を思わせるものは全て置いてくるつもりだった。
しかしこの小さなクリスタルの置物だけは、どうしても手放せなかった。
最後まで迷ったが、家を出る直前に小さなタオルに包みバッグに忍ばせてここに持ってきたのだ。

朝日に照らされて輝く天使像を見つめる彼の瞳も輝いていた。
それは昨日までの飢餓感に憂えた眼差しではなく、安らぎを湛えた優しい光に満ちたものだった。

二人が見つめる天使はどんな光を浴びたときよりも美しく神秘的な光を放っていた。
嶺河は、あの日言えなかった教えられた言葉を彼女の耳元で囁く。

「このエンジェルの作られた国では、朝を共に迎えたいと願う恋人にこれを贈るものなんだよ」 と。




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