高速を2時間ほど走ると感じる空気の温度が変わる。 窓を開けると蒸し暑さが流れ込んでくる都会とは違い、高原の爽やかな風が吹き抜けている。 嶺河は今、詩音がメモに記した場所に来ていた。 そこは遠くに八ヶ岳を望む、高原の避暑地だった。 今のシーズンは週末ともなると避暑に訪れる観光客も多いようだが、その場所は観光地の賑わいから隔てられた静かな別荘地の中にあった。 自然の懐に抱かれた森の中、木々の葉が風に揺れる音や、小鳥のさえずりしか聞こえないこの場所は、都会の喧騒を忘れさせるような静けさで満ちている。 「ここか…」 嶺河は車を停め、辺りを見回した。 手にしたメモに記された住所は確かにここだが、表札はかかっていない。 本当に真音はここに身を潜めているのだろうか。 彼は半信半疑で門の前から中の様子をうかがった。 かなり大きな敷地の奥まった所に瀟洒なログハウスが建っている。 周囲はあまり高くない生垣と樹木に囲まれていて、門から建物までは枕木でできた緩やかなスロープでつながれていた。 目を凝らしてよく見ると、ログハウスの側にある建物のビルトイン・ガレージに停めてある彼女ものと同型の車が見えた。 その時なぜか彼は確信した。彼女はここにいると。 頑丈そうな門扉は堅く施錠されていた。 おそらく屋内からの遠隔操作で開閉するオートロックになっているのだろう。 嶺河は門扉の側にある通用口のノブを回して小さい扉が開くのを見つけると、そこから敷地の中へと入った。 所々に生えている木々を避けるように、迂回しながらログハウスへと伸びるスロープを、玄関の方に向かって歩いていく。 少し傾斜のついた上り坂を一歩ずつ踏みしめるたびに彼女へと近づいているような気がして、嶺河の緊張は高まっていった。 少しでも真音の気配を感じ取ろうと感覚が研ぎ澄まされる。 しかしそれに相反するように恐怖心が湧いてくるのを抑えられない。 もし彼女に受け入れられなかったら…。 彼女に拒まれた時の絶望感を考えると背中に冷たい汗が流れた。 いや、真音が僕を拒むことはない。 あの夜、確かに彼女は彼の愛撫に反応し、身を震わせた。 何が彼女を怖気づかせているのかは判らないが、真音は他人に身も心も委ねることに臆病になっているのだ。 だから彼女は彼の前から姿を消した。 自分の心の揺れを怖れるあまり逃げ出したのだ。 心の葛藤は扉の前で立ち止まることで終わりを告げた。 どんなに思いを廻らせても彼女に会いたい気持ちには勝てない。 真音を取り戻すことができればいい。ただそれだけで他には何も望まない。 嶺河は詩音から預かった鍵を手にすると鍵穴に差し込んだ。 鍵は音もなく外れ、ノブを握ると頑丈な木製のドアは静かに入口を開き、彼を中へと招きいれた。 雪除け用の二重玄関を抜けると、すぐにそこはリビングルームになっていた。 部屋を横切り、庭に面したサンルームの窓を大きく開け放つ。そして、彼はそこから外へとつながるウッドデッキに出ると鮮やかな森の木々を見渡した。 室内に戻っても真音の姿はなかったが、彼女の存在を示すものをあちこちで見つけた。 彼女のお気に入りだった作家の本、口ずさんでいたCD、そしていつも使っていた香水の香り。 彼はソファーに腰を掛けると、それらのものを愛しげに眺めた。 そんな些細なことが、何もなかった空虚な場所に小さな明かりを灯す。 ここに辿り着くまで、一人の女性を愛することとはこんなにも辛く苦しいものかと思っていた。 しかし、今は違う。 一人のかけがえのない女性を愛するからこそ、すべてを乗り越えた後に得られる喜びがあるのだ。 幸運なことに自分は真音に出会えた。 彼女はこれから先の、彼の人生を潤す存在としてどうしても必要だった。 庭で花の手入れをしていた真音は、リビングのカーテンが風に靡いて大きくはためいているのに目を留めた。 今彼女がいる庭は南に向かってなだらかに下っていて、敷地より一段低くなっている。デッキから一階分、階段を降りるため上からは死角になるのだが、自分がいる場所からだとリビングのあたりが辛うじて目に入るのだ。 ちゃんと窓を閉めたはずなのに? ここでは真夏の日中でもエアコンはほとんどいらない。 窓を開ければ天然の冷風が吹き込み、適度な温度と湿度を保ってくれるのだ。 しかし、外にいる間、室内に誰もいなくなることを考えて彼女はいつも窓をきちんと閉めることにしていた。それは独り暮らしをする人間の習慣としては当然のことだからだ。 訝しげに被っていた麦藁帽子を手に取ると、真音はゆっくりとウッドデッキからのびる外階段を上っていった。 デッキを通って開いていたサンルームの開閉式のガラス戸を閉め、日除けを下ろす。 明るい屋外から日陰で薄暗くなった室内に目が慣れるまでにしばらく時間がかかった。 そして数秒後、彼女は目に前にある光景を信じられない気持ちで見ていた。 「なぜ…?」 それ以上何も言えなかった。 すぐそこに、ソファーに座ってじっとこちらを見つめる嶺河の姿があった。 一瞬、真音はそれを彼を恋しがる自分の心が見せた幻覚かと疑ったが、状況を飲み込むとすぐに身を翻した。 しかし、彼女がウッドデッキまで辿り着くことはなかった。 彼女が逃げ出したと見た途端に、嶺河が思い切り彼女の腕を掴み、荒々しく自分の方へと引き寄せたからだ。 「逃げるな」 彼の腕はロープのように巻きつき、きりきりと彼女の身体を絡め取っていく。 「お願いだ、逃げないでくれ…」 彼の胸に抱き寄せられると、シャツからは彼と彼のコロンの香りがした。 懐かしい、もう二度と触れることはないと思っていた香り。 真音は体中の力が抜けていくような錯覚を覚えた。 「会いたかった」 嶺河はそれだけ言うとゆっくりと身体を離し、彼女を見つめた。 痩せた、な。 彼の記憶の中にある彼女より、またひとまわり小さくなったようだ。 肩は骨があたるほど角張って鎖骨が大きくくぼんでいる。白く細い腕には血管が浮き出してそこから繋がる指の細さが痛々しいほどだ。 「なぜ、ここに…?」 彼女が弱々しく、呟くように問いかける。 「君に会いたかったから」 彼が答える。その一言に万感の思いを込めて。 「私はもうあなたに会いたくなかった。だからここに来たのに」 真音は力なく彼の胸を押し退け、彼を拒む言葉を呟いた。 だが、そんな強がりも虚しく、彼女の心は声にならない叫びを上げていた。 『そんなの嘘よ!』 本当は彼に会いたくて、会いたくて仕方がなかった。 全てを失しても彼の側にいたかった。 何もいらない、ただ彼に抱きしめてほしかった。 だが彼女はそれを口にはできなかった。 一度は自分が決めたことだ。彼との関係で深みに嵌らないうちに彼を遠ざけなければならない。 嶺河の周りには自分よりも相応しい女性がごまんといる。一時の情動に流されて、後で泣くのは自分なのだ。 今の彼は、自分を拒んだもの珍しい女を、ただ追いかけまわしたいだけだということに気付いていないのだ。 「コーヒーをいれるわ。少し待っていて」 真音は彼の手を逃れると、キッチンへと入っていった。 機械的に体を動かしながら、頭はこれからのことを考える。 彼をここから追い払い、二度と立ち入らせないようにしなければ。 もう会うまいとあれほど強く誓ったはずなのに、彼を見ているだけでなし崩しに決心が揺らいでしまう。 シンクに寄りかかったまま物思いに耽っていた真音が気づいた時、彼はいつの間にか彼女のすぐ後ろに立っていた。 真音はそれを気配で感じたが、体が麻痺したように動かない。 彼は後ろから彼女の体を挟み込むようにシンクに手をつくと、そっとうなじに唇を寄せてきた。 「何を考えていたの?」 そのまま耳朶を唇で食まれ、真音は身体を震わせた。 「まさか、まだ逃げようだなんて思ってないよね」 考えていたことを言い当てられた彼女は何も言えずに、目を閉じて体を硬くした。彼の体温を背中に感じて、呼吸が乱れる。 嶺河はゆっくりと彼女を自分の方に向かせると、親指で柔らかな唇をそっと撫でた。 その優しい感触に、気を張りつめていた彼女の閉じられた瞼から一筋の涙がこぼれ落ちた。 「逃がさないよ。身体を縛り付けてでも君を放さない。例え地の果てまでも追いかけて、必ず捕まえるからね」 そして彼は彼女の耳元で囁いた。 ― 僕は君の側から離れない。君は永遠に僕のものだ ― その瞬間、真音の中にあった過去の呪縛の鎖が外れた。と同時に唯一の逃げ道だった扉が閉ざされ、鍵が下りる音が聞こえたような気がした。 もう後戻りする道はなくなった。 重い枷を振り払った彼女の心は出口を求めて、目の前で待つ彼の方へと流されていく。 気がついた時、彼女は嶺河の体をかき抱いていた。 もう理性も分別も役には立たない。 今は…今だけは、彼は私のものだ。 一気に押し寄せてきた心と身体の渇望に、喘ぐように真音は彼に縋りついた。 「真音……」 見上げた彼の目は欲望に揺らいでいる。 真音は彼の胸に顔を埋め、そっと指を這わせながら呟いた。 「私は…あなたのもの、よ」 その答えに、彼は歓喜の表情で真音を抱き上げると、彼女の指し示す場所へと向かった。 彼女は迷いを振り払うかのように嶺河の首にしがみつきながら、もう一度心の中で呟いた。 私はあなたのものよ…。 そしてあなたは私のもの。 そう、今、今だけは…。 しかし彼女は知っていた。 『永遠』という言葉は美しい響きとは裏腹に、未来にとって何の約束にもならないことを…。 HOME |