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雪のミラージュ  13


真夏の照りつける日差しの中、女性が庭木に水を撒いている。
いつものように車を停めた嶺河は、庭の奥にその姿を認めた。
呼び鈴を押すが聞こえないのか反応がない。仕方なく門扉を開けて中に入っていくと、気配に気付いた人影が驚いた様子でこちらに近づいてきた。

「どちら様でしょうか?」
庇の大きい帽子を被っている上、逆光になっているせいで女性の顔ははっきり見えないが、すらりと背が高く、スタイルの良い足がショートパンツからのぞいている。
「失礼ですが、西山真音さんのお知り合いの方でしょうか?」
一瞬間があった後に、ためらいがちな答えが返ってきた。
「ええ、そうですが。何か…?」
「彼女を探しています。何かご存知のことがあれば、ぜひおうかがいしたいと思って」
「あの…まだお名前をお伺いしていませんが」
女性の声色が警戒感を帯びる。
「朝倉、朝倉嶺河と申します」
名乗った途端、彼女が身体を強張らせたのを感じた。
「お役に立てるとは思いませんが…」
女性は見るからに気乗りしない様子で返事をした。
そのあからさまな拒絶の態度に彼は戸惑った。
一体彼女は何を知っているのだろう。

しばらく沈黙が続いた後、彼女は渋々だが彼を家へと招き入れた。
初めて入る家の中は整然と片付いているが、不思議と冷たい感じはない。
家具や調度品は、真音が好みそうな柔らかなインテリアで設えられていた。

「せっかく来ていただいたのに、申し訳ないのですが…」
彼女は嶺河にコーヒーを出しながら、そう話し始めた。
外では帽子を被っていたせいで分らなかったが、彼女の髪はゆるいウエーブの入ったショートカットで、色はダークブラウンだ。
しかも、改めて見上げた彼女の瞳は濃いサファイアブルーで、流暢な日本語を喋らなければ到底日本人とは思えなかった。
しかし彼にはその面差しに見覚えがあった。
「もしかしてあなたは?」
一瞬躊躇った後彼女が頷いた。
「ええ、私は真音の…妹の詩音です」
「しかしあまりにも彼女とは…」
外見が違いすぎると言いかけて止めた彼の驚いた顔に、苦笑しながら彼女が続ける。
「姉とは母親が違うんです。姉のお母さんは早くに亡くなっていて、父はアメリカ人だった私の母と再婚したものですから」

幼くして母親を亡くした彼女にとって真音は姉であり、母親であり、親友だと彼女は言った。
そして今となっては唯一残った、たった二人きりの家族だとも。

「姉はもう、あなたには会うつもりはないと…」
彼女はそう言って彼を見た。
詩音の言葉を聞いた嶺河の顔に焦りと苦悩の色が浮かぶ。
なぜ真音は自分の元から姿を消したのか。
彼女を探し始めてから今までずっと、考え続けていたことだった。
いざとなれば簡単に切り捨てられるほど、彼は真音にとって取るに足らない存在だったのだろうか。
自分はこんなにも彼女を渇望しているのに。

「でも、今でも姉はあなたをとても大切に想っています」
彼女の言葉に打ちひしがれた嶺河を気遣いように、詩音は慎重に言葉を選んだ。
「なぜ…そんなことが分かるのです?彼女に一方的に去られたのは僕の方だというのに」
自嘲気味な笑いを浮かべながら彼が呟いた。
「今の姉の様子を見れれば、分かります」
詩音は目の前に座る自棄気味な男に鋭い視線を浴びせ、そう言い放つと姉のやつれた姿を思い浮かべた。

ひと月前、真音は長期休暇で日本に帰省してきた詩音を伴って八ヶ岳の別荘に移った。
最初は避暑のための短期滞在と思っていた詩音に、姉は当分の間東京には戻らず空き家となる自宅の管理を業者に委託するつもりであることを話した。

彼女は東京を離れてからというもの、物思いに耽ることが多くなった真音を見て心を痛めていた。
もともと穏やかで騒ぎ立てる性格の姉ではなかったが、その寡黙さが一層目立つようになったからだ。
日々食が進まなくなり、体は目に見えて痩せていた。
滞在予定の2週間を過ぎてもなかなか姉の元を離れられなかったのは、衰弱していく様子の真音を放っておくことができなかったからだった。
いくら尋ねても真音はその理由を明かそうとはしなかったが、何度か無意識に彼の名が口から漏れたことがあった。
そのときには深く考えることもなかったが、今なら分かるような気がする。
姉の憔悴の原因は、この男性に間違いないだろう。

「でも、彼女は突然僕の前からいなくなったんだ、一言も、何も言わずにね」
彼は納得のいかない様子で詩音を見た。
「彼女の居場所を教えてほしい。彼女に会って話をしたい」
嶺河はソファーから身を乗り出し、必死の思いで詩音を問いただした。
もう体裁などかまっている余裕はなかった。彼女を取り戻せるなら全てを投げ打っても構わなかった。

「でも姉は会いたくないと言うと思います。ああ見えて、一度言い出すと梃でも動かない人だから」
詩音は焦らすように言葉で渋る。
「お願いだ、教えてくれ。彼女のいない生活なんて考えられない。彼女が側にいないと、僕も生きている意味がないんだ」

彼の悲痛な懇願の声と偽りのない真剣な目を見た詩音は、急にそれまで硬かった表情をやわらげた。
「あなたの本当の気持ちを聞きたかったの。試してごめんなさい。姉が会いたくないと言ったなんて嘘。ただあなたが自分を探し出してまで会いに来るなんて、思っていないだけよ」
彼女はそう言うと、傍らにあったメモを1枚切り取り、何かを書き付けて嶺河の方に差し出した。
「姉はそこにいます。連絡はしない方がいいと思う。居所が知られたのが分かれば、逃げ出すのがオチですから」
そして詩音は、彼に1本の鍵を手渡した。
「これが別荘の鍵。これで私があなたにあげられるものは全部渡したはずだから…」
嶺河は短く礼を言うと、彼女が最後まで言い終わらないうちにドアに向かって歩き出していた。
やがて玄関が閉まる音がして、車に向かう彼の後姿が窓辺に佇む詩音の目に映った。

「よほど、余裕がなかったのね。お別れの挨拶もなしで行っちゃったわ…」
そう言いながらも、彼女の顔には希望の笑みが浮かんでいた。
真音の一度目の結婚は、あまりにもひどい終わり方だった。
それを間近で見ていた詩音は、傷ついた姉の心を癒してくれる新しい出会いをどれほど待ちわびていたことだろうか。

今度こそ上手くいきますように。
彼が真音を大切に守ってくれる人でありますように…。

詩音は祈るような気持ちで彼の背中を見送りながら、大切な姉が幸せになれることを心から願っていた。




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