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雪のミラージュ  12


真音がいなくなってすでにひと月が過ぎようとしていた。
自宅に送り届けた日を最後に、彼女は突然姿を消した。
あの日の翌週に発生したアクシデントを解決するため、急遽嶺河が渡米している間の出来事だった。

急なフライトだったため、離陸直前まで連絡がつかなかった真音にメールを入れた時点ではすぐに返信があった。
それから1週間、多忙とニューヨーク、東京間の時差を考えてなかなか声を聞く機会が持てないまま時間だけが過ぎていく中で、最初に異変に気付いたのは帰国を2日後に控えた日のことだった。
数日前から入れてあったメールに、いつまで待っても返信が送られてこない。
あのまま体調でも崩したのかと心配になり、何度か携帯に電話を入れてみても、留守番電話サービスに接続されてしまうばかりで本人が出る気配がない。
自宅の方にも連絡をしてみたが、呼び出しが鳴り続けるばかりだ。

逸る気持ちを抑えて予定の仕事をこなし続け、最終日の午後の会食をキャンセルして帰国の途に着いた嶺河は、成田からその足で彼女の自宅へと向かった。


真音の家は亡くなった両親が残したもので、郊外にある一軒家だ。
数年前までは祖母と妹が使っていたということだったが、祖母が亡くなり、妹がアメリカの学校に留学したため、今は実家に戻った真音が独りで住んでいる。

彼女の家に着いた頃には、辺りは薄闇に包まれていた。
閑静な住宅街に建つ洋館は、いつもと同じように街灯の光を受けて仄かに白く浮かび上がっていたが、静まりかえっていて人のいる気配はない。
全ての窓に鎧戸が下ろされ、門灯にさえ明かりが燈っていない。
門扉は厳重に鍵がかけられ、ポストには物が入れられないように覆いがされていた。そしていつもは玄関脇の車庫に入っている彼女の車も姿を消していた。
ここにはすでに何日も、人が暮らした痕跡が感じられない。
その時嶺河は、初めて彼女が意図的に姿を消したことを悟った。

翌日、彼女の仕事先に連絡を入れてみたが、しばらく仕事を休みたいと休業を伝えてきたとの返事だった。
郵便も友人宅に転送以依頼が出されていて、落ち着き先が決まったら連絡する、とだけ言われたとしか聞き出せなかった。
彼が知る真音に関する情報はあまりにも少なく細切れだ。
もっと具体的な情報を求めて、嶺河は調査会社に依頼して彼女の身辺を調べさせることにした。


一週間後に報告書が送られてきた。
丁寧に調べられた情報がレポートで報告されてきたが、その時点では彼女の居所を突き止めるまでには至っていなかった。
調査員が海外にいる妹にコンタクトをとろうと試みたが、彼女も年度末の休暇中で連絡がつかないという。

嶺河は薄いファイルを捲り、報告が記載されているページに目を通した。
彼女は有名な交響楽団に所属していた父親の仕事の都合で幼少期をアメリカ、フランス、ドイツといった海外ですごしている。
真音の父は名だたる楽団のコンサートマスターを任されるほどのバイオリニストだったが、彼女が18歳の時、公演のためヨーロッパに滞在中の事故で母親と共に他界していた。
彼女自身もそのことが原因で推薦が決まっていた海外の音楽院への入学を辞退、当時4歳だった妹を引き取り帰国したという。
真音が音楽を生活の糧にできるほどの技量を持っていたことは知らなかった。少なくとも彼の前でそういう素振りさえ見せたことはない。

次のページは成人後、特に結婚についての内容だった。
彼女は国内の大学を卒業後、すぐに著名な建築家と結婚している。
その名前を見た嶺河は驚きのあまり言葉を失った。

片桐章吾
海外で仕事をする日本人なら一度は耳にする名前だろう。
若くして建築家としての才能を認められ、海外を拠点に多くの有名ホテルや巨大ホールを手がけた人物だ。
特にアメリカでの評判が高く、いくつもの有名な建物を手がけていたが、数年前に飛行機事故で死亡したと聞いている。
あの高名な人物が彼女の亡夫だったとは。
夫の死後、すぐに彼女は婚家を離れ旧姓に戻っている。
結婚してからそれまでの時期に関して特に記載がなくその間の動向は不明という言葉で報告がまとめられていた。

結果として、彼女の所在はつかめなかった。
引き続き調査を行うように指示をしておいたものの、期待は持てないという見解を伝えられた嶺河は、祈るような気持ちで連絡を待ち続けた。

それからの日々は彼にとって自分との戦いだった。
時間を忘れて仕事に没頭し、以前より多く社交の場や会議会合にも出席した。
何かをしていないと彼女を見失った喪失感に押しつぶされそうになる。
真音が側にいることで、彼の日常に与えられていた潤いと充足に今更ながら気付かされた。

確かに真音が失踪した当初、嶺河は黙って姿を消した彼女に対して怒りを持ち、疑念を抑えられなかった。
しかし、刻々と時間が過ぎていく中で怒りは鳴りを潜め、残ったのは焦燥感と自分でも持て余すほどの空虚な心だけだった。

自分にとって、すでに真音はなくてはならない存在になっている。
このまま彼女を失うことには耐えられない。
何としても彼女を見つけ出し、連れ戻さなくてはならない、絶対に。


8月も半ばが過ぎた頃、彼の元に1本の電話が入った。
調べを続けていた調査会社からのもので、ここ数日真音の自宅に誰かが出入りしている形跡があるという。
誰でもいい、彼女の情報を持っている人物なら会ってぜひ話を聞きたい。
嶺河は逸る気持ちを抑えて、すぐに彼女の家へと向かった。




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