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雪のミラージュ  11


リビングに戻ってきた嶺河が最初に目にしたのは、身体を丸め、ソファーに寄りかかったまま震えている真音の姿だった。
顔色は紙のように白く、汗で額に髪が貼りついている。
彼は指先でそっと彼女の髪をかき上げると、掌で熱を測った。

「また上ってきたみたいだね。さぁ、ベッドに行こう」
「でも…」
いつもの彼に戻ったと分かってはいるが、さっきまで吹き荒れていた嵐の余韻を残したまま、彼のベッドに入るのは躊躇いがある。
素直に立ち上がらず抵抗する真音に「困った人だね」と一言と呟くと、嶺河は彼女を軽々と抱き上げて寝室へと向かう。そしてベッドの側まで来ると、上掛けを剥ぎ、コットンのシーツの上に彼女を横たえた。

ひんやりとしたシーツが熱っぽい背中に触れると身体に震えが走る。
脇に挟んでいた体温計を取り出してみると、先ほどよりも熱が上ってきたようだった。
「寒い?」
首を振る彼女を薄い上掛けで包むと、嶺河はリモコンを掴んでエアコンの温度を少し緩めた。
「もう今は何も考えずにゆっくり休むんだ」
それだけ言うと、彼は寝室から立ち去ろうと彼女に背をむけた。
その声は驚くほど優しく、高熱で気弱になりかかっていた彼女の気持ちを揺さぶった。
「ごめんなさい…」
一体何に謝りたかったのか、自分自身にもよく判らなかったが、呟いたのは謝罪の言葉だった。
そしてその次に口から零れた言葉に、彼の足が止まった。
「お願い、少しだけ…もう少しだけで良いから側にいて」
振り返ると真音は上掛けから片手を突き出し、彼の手を求めていた。
嶺河は何も言わずに再びベッドの端に座ると、そっと差し出された手を握って布団の中へ戻した。
そして撫でるようにゆっくりと、枕に流れる長い髪を梳きながら、彼女が眠りに落ちるのを見ていた。

暫くして、真音の呼吸が落ち着いたのを確認した嶺河はそっと上掛けを直し、青白い寝顔を見つめた。
彼を呼び止めた時の彼女は、まるで置き去りにされた迷子のようだった。
その縋るような目は、このまま彼がいなくなってしまうと言わんばかりに、必死で彼を求めていた。
熱に浮かされていたとはいえ、今日の彼女はいつもと違い、いろいろな感情の乱れを垣間見せた。
少し甘えて寄り添ってきた時の頼りなげな顔、彼の愛撫に応えて身体を震わせた官能的な女の顔、そして子供のように庇護を求めて縋ってきた童女の顔。

日頃の真音は常に慎み深く、感情を抑え込んだ大人の女性の部分しか見せていない。だが時折作られた壁の向こうに、かなり複雑な感情の混在が見え隠れすることがある。
特に彼女が最後に見せた弱々しさは、何かを失うことに対する怯えが強く映し出されていたように思えた。
真音と本気で向き合うためには、まず彼女の潜在的な不安や怯えの起因を探し出さなくてはならないのではないか。
彼はそう考えた。
漠然とした恐れを抱えたままの真音が、自ら枷を外して彼の胸に飛び込んでくるとは、到底思えなかった。


翌朝、真音が目覚めた時、彼はすでにリビングのローテーブルの上に書類を広げていた。

「おはよう、具合はどう?」
彼女の額に手を当てて熱が下がっていることを確認すると、嶺河は自分がいたソファーに座るよう彼女に勧め、自分はキッチンへと入って行った。
明るいところで改めて周囲を見回すと、昨夜は分からなかったリビングの様子がよく見える。
裕に20畳はあろうかと思われる広い空間の壁面に、リビングボードとオーディオセットと大型のテレビが置かれ、その他にはソファーとローテーブルがあるだけだ。
コーナーにお洒落なホームバーが備え付けられているあたりはさすがに彼の部屋らしいが、全体として生活感が感じられない。モダンな家具類は彼の趣味ならさぞかし高級なものなのだろうが、彼女の好む温かさとはかけ離れた雰囲気だ。
このソファー一つとってみても無機質で冷たい。
革に手で触れ、その感触を思い出した彼女は顔を赤らめた。
昨夜、彼とこのソファーの上で何をしてしまったのか。
剥き出しの背中に感じた革の冷ややかさと、身体のあちこちに残る彼の指と唇の感触が甦ってくる。

キッチンから戻ってきた彼がグラスを差し出した。
「コーヒーよりこっちの方がいいと思って」
グラスの中にはグレープフルーツジュースが入っていた。
少し苦味のある酸味が口に広がる。
熱のためか味覚が損なわれている分、舌で感じられる冷たさがありがたかった。
嶺河は、自分に注いできたコーヒーを片手に書類に目を通している。

並んで座っていて何も会話がないのに、不思議と気詰まりはなかった。
静かな空間に彼が書類を触る乾いた音だけが聞こえている。

「ああ、ごめん。退屈だろう?」
横でじっと自分を見つめる真音に気がついた彼が、済まなさそうな顔をする。
「緊急の案件があってね。もう少しで終わると思うから」
「お邪魔しないからゆっくりと片付けて。その間に洗面所をお借りしても良いかしら」
熱が引くと、昨夜かいた汗のべとつきが気になり始めた。それにメイクも落さないまま眠ってしまい、さぞかし今はひどい顔をになっていることだろう。 「良かったらシャワーを使うといい。洗面所は2番目のドア、浴室はその奥だ。タオルはストッカーの引き出しの中にあるのをどれでも使って」
彼女は小さく微笑んで「ありがとう」と言うと、ドアの向こうに姿を消した。


その日一日、二人は嶺河のマンションで過ごした。
仕事に没頭する彼の横で真音は携えていた本を読み、静かな時間がゆっくりと流れていった。
彼女と同じ空間にいるだけでこんなに穏やかな気持ちになれることは新しい発見だった。
見慣れた部屋の風景が、温かみを感じる色に見える。
そんなことを思いながら時折ちらりと真音を見ると、彼女もこちらを見ていた。
言葉にしなくても、互いを見ているだけで充分に満足できた。

嶺河にとって、今や彼女はなくてはならない存在になりつつある。
彼女の気配を側に感じているだけで安らぎを与えられ、満たされた気分になれた。
時折、体の欲求が不満を訴えること以外は。

夜になり、嶺河は彼女を家まで送り届けた。
いつものように、真音が玄関の鍵を開けるのを見届けて車に戻ろうとした時、不意に彼女が彼の後を追って車の側に近づいてきた。
いつもと違う真音の行動に、運転席に乗り込みかけていた彼の動きが止まる。
そしてその意図するところに気がつくと、徐に両手を広げて彼女が飛び込んでくるのを待ち受けた。
彼女は車のドアに凭れた嶺河の腕の中に滑り込むと、そっと彼の項を引き寄せ、唇を重ねる。
それは彼女が初めて嶺河に見せた、愛情の表現だった。

唇と舌でゆっくりとその甘さを味わうと、嶺河は満足げにそのまま彼女の身体を抱き寄せ、耳元で囁いた。
「このくらいにしておかないと、帰れなくなりそうだ」
彼女は小さく笑うと彼の腕を引き剥がし、ドアから離れて車が動き出すのを待った。
嶺河が軽く手を挙げて、それを合図に車が走り出す。
真音はそれを目で追いながら、零れそうになる涙と必死に闘っていた。

さっき彼にした口づけは彼への最初で、そして最後の告白だった。
昨夜のことで判った。自分は彼を愛し始めている。
今、彼が注いでくれる愛情は疑う余地もない。
しかし、それがいつまで続くものなのか。
あと数年、いや数ヶ月しかないかもしれない。
すでに若くない自分が彼の気持ちをどれだけ繋ぎとめておけるのかを考えると、素直に自分の気持ちを受け入れ、認めることはできなかった。
彼を愛しているからこそ、裏切られたらと思う恐さが拭えない。
二度も同じ苦しみを味わうのは耐えられない。
いや、彼の魅力が抗えないほど強い分、失った時の苦痛は前よりも大きいかもしれない。

彼と一緒にいると叶わない夢を見てしまう。
幸せという名の砂上の楼閣の夢を。
もう彼の側にはいられない。
彼なしで生きていけなくなる前に、彼を忘れよう。


真音の目は走り去る車のテールランプが見えなくなるまで彼を追い続けた。
そしてそれが視界から消えた時、ようやく心の中で彼に別れを告げた。
両手で抑え込んだ口元から嗚咽が漏れる。
もう誰にも遠慮はいらなかった。
真音は家の中に走りこむと扉に凭れ、やっと開放されたかのように声を上げて泣き続けたのだった。




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