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雪のミラージュ  10


どうやってここまで辿りついたのか全く記憶がなかった。
気がついた時には見覚えのない部屋のこのベッドに寝ていた。
間接照明だけを残して明かりが落された部屋は味気ないほどシンプルで、壁面を覆う造り付けのクローゼットと、この大きなベッドとサイドテーブルの他には家具らしい家具は置かれていない。
生活感の感じられない空間だった。

ここは…どこなのだろう?
しばらくぐっすりと眠れたせいか、少し体調は良くなっているように思える。
朦朧としていた頭も幾分かすっきりとしていて、考えを巡らせることもできた。
真音は力が入らない腕を何とか伸ばして、サイドテーブルの上にあった目覚まし時計を手繰り寄せ、薄暗い中で視点を合わせようと目を凝らした。
「午前1時…」

昼頃から寒気がして、気分が悪かった。
だんだんと思ったように体が動かなくなり、歩くたびに視界が歪み、体が悪寒に震えた。
約束の時間を示す時計の針が動くのが、どんなに遅く感じたことか。
夕方、待ち合わせ場所で彼を見つけた途端に気が抜けて…。

「あ、そう…か…」
急に記憶がはっきりし始め、意識が覚醒する。そう、多分ここは彼のマンションだ。
彼女は今まで嶺河のマンションに来たことはない。
そして彼も、彼女を自宅まで送ることはあっても家に上がることはしなかった。
敢えてそれを避けていたわけではないが、許しなくお互いのプライバシーには立ち入らないというのが、二人の暗黙の了解になっていたのだ。
「彼のベッドで寝込んでしまったのね」
今まで意識的に避けていた、彼の私生活に踏み込んでしまった戸惑いは大きい。それも、よりにもよって彼の聖域と呼ぶべきであろうベッドに横たわっているのだ。
何て厚かましいことをしてしまったのだろう。
真音は小さく溜息をついた。
とにかく彼を探さなければ。できればお水も飲みたい。熱のせいか、喉が張り付きそうに乾いている。
ベッドから出ようと立ち上がるが、足元がふらつき、思わず床に膝をつく。
まだ体力は十分に回復してはいないようだ。
ゆっくりと周囲のものに掴まりながら寝室を出た真音は、廊下の突き当たりのドアから光が漏れているのを見つけると壁を伝いながら歩いていった。

ドアを開けて中をうかがうと、そこはリビングだった。
壁際のソファーに座っていた嶺河が気配を感じて立ち上がり、近づいてくる。
「調子は?」
「ありがとう、少し良くなった…と思う」
「無理してたんだな。ここに着いた時、ほとんど意識がなくってさ。地下の駐車場からここまで抱き上げてきたの、覚えてないだろう?」

事実を知らされた彼女は、思わず顔を赤らめて俯いた。
「…全然、記憶に、ない。ごめんなさい、迷惑かけちゃって。大変だったでしょう?」
自分がどんな格好でここに連れてこられたかを想像しただけで、恥ずかしくて彼の顔をまともに見られない。
ふと自分の服に目をやると、上着を脱がされ、いつの間にか膝丈のタイトスカートは彼のものであろうコットンのショートパンツに着替えさせられている。
時計やネックレスは外され、ブラウスのボタンも上から2つ目まで開けられていた。

「真音さん、体重が軽すぎる。だから体力がないんだよ」
「え、そんなことないと思うわ。体重は人並みあるし、いらない所にお肉がついてるし」
そう言って慌てる様子を見て、彼が小さく吹き出す。
「いつも言ってるけど、肩や手足は細すぎるよ。力を入れて掴むと折れそうだ」


最近、彼にそう言われるようになって、時々意識して鏡を見るようになった。
浴室の鏡に映される姿。
手足の細さは昔と同じでも、二十代のころのように、水を弾く肌の瑞々しい張りを無くしてしまった自分の身体。
分ってはいるけれど、年齢を重ねたという現実を思い知らされるのは哀しかった。
今の自分が嫌いな訳ではないが、彼という男性に近づけば近づくほど、自分が卑屈になってしまうのを止められない。
どう足掻いても、私は年若い彼に相応しい女とは呼べないだろう。
真音はさっきまで嶺河がいたソファーに座ると、彼がキッチンに入り冷蔵庫からミネラルウオーターを取り出すのを見ながらそんなことを考えていた。

リビングに戻ってきた嶺河は彼女の横に座ると、グラスを渡してペットボトルから水を注いだ。
「喉が渇いていると思って」
「…ありがとう」
熱でカラカラになった喉に冷たい水が浸み込んでいく。
一気に飲み干すと、空になったグラスをテーブルの上に置いた。
「どう?もう少し飲む?」
頷くと彼は再びグラスに水を注いで彼女に手渡した。真音はグラスに口をつけながら、すぐ横にいる彼をそっと見つめた。
彼は薄いブルーのシャツに、白いコットンパンツを履いていた。風呂に入った後なのか、湿った髪からは水滴が落ち、シャツの肩に小さなシミを作っていた。
普段のように髪を整えず、ラフな服を着て裸足で床を歩く姿は、今までに見知っているスーツ姿よりもはるかに若く見える。
「何?」
自分を見つめる視線に気がついた彼が、怪訝そうな顔をする。
「うん、若いなと思って…」
真音はふふっと笑いながら答えた。
「いつものかっちりとした姿も素敵だけど、今日のあなたは…そうね『少年』という感じがする」
子供にするように、頭をそっと撫でる真音の手首を掴み、彼が自分の頬に押し当てた。
「あら、だめよ。少年は少年らしくね」
それを聞いた嶺河は悪戯っぽく笑うと、彼女の手に唇を滑らせ、指先をなぞっていく。
軽く触れる唇のくすぐるような感覚が、密やかな快感を高めていくようだ。
「今どきの少年は純真ではないんだよ、真音さん。あまり僕を煽らないでくれるかな。本当にティーンエイジャーみたいに歯止めがきかなくなるから」
彼は手首を掴んでいた手を離し、彼女の顎をつかんで自分の方に向かせると、軽くキスをした。そして一度唇を離し、彼女の項に手を添えると、今度はむさぼるように激しく唇を重ねてきた。

言葉とは裏腹な、息も出来ないような口付け。
真音は彼の目に危険な炎が宿るのを見た。
情熱的な欲望という名の紅蓮の炎が。

突然、部屋の空気が変わった。
それを敏感に感じ取った真音が身体を離そうとするが、逆に掴まれた手を強く引かれ、彼の胸に抱き寄せられた。
シャツ越しに、どちらのものとも分からない激しい鼓動を感じる。
「お願い、離して…」
拘束の手を解こうと必死にもがくが、身体に巻きついた腕はますます強く彼女を掻き抱き、首筋に何度も強く吸いつかれた。
引き寄せられて密着したお腹のあたりに、彼の欲望の証が押し付けられるのを感じる。
息も出来ないほどきつく抱きしめられ、喘ぐように開いた唇から彼の舌が忍び込んでくると、身体はゆっくりと抵抗する力を失い始める。
今まで感じたことのない感覚が全身を走り抜け、無意識のうちに自分の舌を彼の舌に絡ませていた。

「ああ…」
彼女の悩ましげな息遣いを耳にした途端に、嶺河の理性の壁が音を立てて崩れ落ちた。
片手で彼女を拘束したまま、もう片方の手で器用にブラウスのボタンを外すと肩から引き下ろす。
下に着けていたシルクのキャミソールが一気に引き抜かれ、現れたレースのブラジャーの上から敏感になっている胸に触れられると、彼女の体に震えが走った。
腰に当てた彼の手が上へと滑り、何かを探すように背中をさ迷う。
そして下着のホックを探り当てると素早くそれを外し、彼女の胸を露にした。
「お願いだから、止めて…」
僅かに残った羞恥心から、絡まった身体を引き離そうと彼を押しのけた真音は両手で胸を覆い隠したが、その反動でソファーに仰向けに倒れこんでしまう。そしてすぐに覆い被さってきた嶺河に手首を易々と頭の上で一つに掴まれ、身動きがとれなくなった。
押さえ込まれた身体は弓なりに仰け反り、突き出された胸の先は触れられるのを待ち焦がれるように固く尖って彼の唇を誘った。
嶺河は唇で胸の頂を含むと蕾を吸い上げ、優しく舌で弾き転がす。その間も空いた方の手は彼女の背中を軽く撫で続けている。
真音の口から小さな喘ぎが漏れ始めたころには、強張っていた体から力が抜けていた。
拘束されていた手首を放しても、それで抗う気力さえ無くしているようで、代わりに彼女の手は嶺河の頭を掻き抱き、無意識に湿った髪に指を絡ませていた。

柔らかな胸の感触を味わい尽くした彼の唇が蕾を離れ、舌がゆっくりと鳩尾を滑っていく。
彼の手が唇の行く手を阻むショートパンツを引き下ろすと、真音が身につけているものは小さな薄い布切れ一枚になってしまった。
臍の小さな窪みに舌を入れ軽くつつくと、彼女の肌が粟立つ。それを見据えながら、彼は最後の下着をゆっくりと引き下ろした。
現れた柔らかな茂みに吸い寄せられるように顔を近づけ、その下で彼を待つ秘められた場所にそっと口付ける。
その時、真音の下腹部を撫でていた彼の指が滑らかな肌の上に違和感を感じ取った。
顔を上げて指の当たるところを見た彼はそこに傷跡を見つけた。それは長さ10センチほどの手術痕で、新しいものではないが僅かに盛り上がり、白い肌の上にピンクの色を落している。
下腹部を縦に走る線に沿って指を動かすと、はっとしたように真音が身体を起こし、彼の手を振り払った。
「お願い、触らないで」
甘い余韻を残す目はまだ少し潤んだままだが、その顔は青ざめ、唇は震えていた。
「その傷は?」
彼の問いかけに小さく首を振っただけで何も答えず立ち上がると、彼女は床に落ちていた服を急いで拾い上げ、身体を隠した。
顔色が紙のように白く、血が滲むほど唇を噛み締めている様子を見ても、今夜これ以上は無理だと感じた。
身体の震えが止まらないのは体調のせいもあるのだろうが、ただでさえ弱っている彼女をこれ以上問いただすこともしない方が良いだろう。

「シャワーを浴びてくる。その間に服を直して」
嶺河はドアを開けると、彼女にそういい残し浴室へと向かった。
急に冷えてしまった雰囲気に興奮しきった身体がついていけないままだ。
思い切り冷たい水を浴びて中途半端に燻った身体を鎮めると、体が冷えて熱が治まるのとは反対に頭の中は彼女の過剰な反応への疑問で溢れてきた。

彼が傷跡に触れた時の、真音の引き攣った表情を思い浮かべる。 彼女は一体何に対して怯えているのだろうか。
もしかすると、今までの頑なな態度もあの傷と何か関係しているのだろうか。
あれこれと考えをめぐらせてはみたものの、うまく結論に結びつくような答えは出てこない。

仕方がないことだ。
僕の彼女に対する情報はあまりにも少なく断片的すぎる。

彼はタオルで水滴を拭き取りながら思った。
真音を自分のものにするためには、まず彼女を縛りつけている枷を見つけ出さなくてはならないようだ。
そこから解き放ってやらなければ、永遠に真音の心を手に入れることはできないだろう。
彼女の過去を詳しく探る必要がある。
それも彼女に気付かれないように、今よりもっと注意深く、慎重に。




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