BACK/ INDEX



雪のミラージュ番外編

夏の音色にのせて  3


「微弱陣痛?」
真音が困ったような顔で頷く。
「朝方に一度、強い収縮がくるようになったんだけど、お昼過ぎたらまた元に戻っちゃって…」
陣痛の合間にうとうと休んだお陰で少し体力は回復してきたというが、顔色が冴えない。それでも出産を促すために、身体を動かすようにと言われて、部屋の中を歩いているのだという。
「今ちょうど詩音が食事に出ているの。一人では部屋から出るなって言われてるから、帰って来るのを待っていたのだけれど」

嶺河は真音に乞われて、一緒に廊下を歩いていた。
この病院は家族も宿泊できるようになっており、廊下の端には子供用のプレイルームが完備されている。
二人がその前を通りかかった時、ガラス越しにさわさわと揺れるものが目に留まった。
「ああ、明日は七夕か」
中を覗くと、笹に吊るされたさまざまな形の短冊が、エアコンの風に吹かれて靡いている。
おそらく子供たちが親と一緒に綴ったのだろう、たどたどしい文字でいろんな願い事が書かれていた。
「そう言えば、昼間どこからか風鈴の音も聞こえていたけれど、ここだったのね」
今は閉じられた窓の側に、いくつかガラスの風鈴が吊るしてあった。
昼の間は外から入ってくる風がこれを鳴らしていたのだろう。
「風鈴の音色。夏を感じる、季節の音だわ」
辺りを気にしながら風鈴から下がる短冊をちょこんと指先で弾くと、微かだが透明な鈴の音が響いた。
「これから毎年、この音を聞くたびに今日のことを思い出すんだろうな」
「あなたの慌てた顔もね」
二人は顔を見合わせて笑った。

「決めた」
「えっ?何を?」
唐突に言う彼に、話が見えない真音は訝しげな顔を向けた。
「名前。この子の名前さ。夏音(かのん)。夏の音を聞きながら産まれてくるこの子にぴったりだと思わないか」
前々から子供には母親である真音に因んだ名前をつけると決めていた。
西山の家は音楽家の家系らしく、真音だけでなく妹の詩音も「音」の一文字がつけられている。
女の子ならこの文字をもらうのが良いのではないかと、彼は密かに考えていたのだ。
舌に転がりのよい音を持つ、印象的な名前。
夏音ならぴったりくるように思えた。
「カノン。いい名前ね」

急に来た少し強い痛みに、真音が顔を顰める。
「どうやら、この子、パパに早く会いたくなったらしいわ」
「きっと僕が帰って来るのを待っていたんだよな。いい子だ。もういつ出てきてもいいぞ。待っているからな」
お腹に向かって嶺河が声を掛ける。
真音は、何も言わずにただ微笑んで、そんな彼を見ていたのだが。

「あぁっ」
思わず声を上げると身体を折り、嶺河の腕に縋りながらその場にしゃがみ込んだ。
「どうした?」
慌てて真音を支えようとした彼の目に濡れた床が飛び込んできた。
「多分、破水した…みたい」


数時間後。
日付が変わってしばらくの後、真音は無事女の子を出産した。
その誕生の瞬間に立ち会った嶺河は、生まれたての娘を抱き、その姿を食い入るように見つめていた。

「私にも見せて」
処置のために、まだベッドに横たわったままの真音の側に赤ん坊を寝かせると、よく見えるように包まれたタオルを開く。
二人は確かめるように、柔らかなタオルの間からのぞく手を開き、指の数を数えた。
「見て、ちゃんと爪まであるわ。こんなに小さいのに」
そう言って微笑む真音は、全身から疲れを滲ませながらも、母親となった喜びに顔を輝かせていた。

その後、真夜中にも関らず連絡を受けて駆けつけた家族は、短い時間ではあったが生まれたばかりの赤ん坊との対面を果たした。
そして皆、新しい家族の誕生を心から歓迎し、祝福してくれたのだった。


「真音、お疲れ様。僕に可愛い娘を授けてくれて、ありがとう」
皆を帰し、一息ついた嶺河が病室に戻ってきた。
そしてまだ疲労の色が抜けない、真音のやつれた頬を撫でると、そっと彼女に口づけた。
赤ん坊は、側に置かれた小さなベビーベッドに寝かされていた。
その横のテーブルには、嶺河のニューヨーク土産、ベビースプーンとティースフェアリー・ボックスが入った箱が置かれている。
「自分が子供を産んだなんて、まだ夢をみているみたいで、信じられないの」
だが、彼女がどれほど苦労し、産みの苦しみに耐えて娘をこの世に送り出したのかを一番間近で見ていた嶺河は、その姿に畏敬の念さえ抱いていた。
最愛の妻が産んだ、愛する娘。
彼の中でまた一つ、守るべきものが増えたのだ。

真音が半身を起こし、すやすやと眠るわが子を愛しげに見つめる。
「私たちのところに生まれてきてくれて、ありがとう」

真音の言葉に感極まった彼も、ただ同じ思いで頷いた。



朝倉 夏音(かのん)
7月7日、午前1時8分。
その名に涼やかな夏の音色を戴く、
朝倉家待望の女の子が、この日誕生した。




≪BACK / この小説TOP へ
HOME