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雪のミラージュ番外編

夏の音色にのせて  2


今回の海外出張はかなりハードな日程だった。
最初にヨーロッパの拠点を回り、その後、ニューヨーク、ワシントン、フィラデルフィアを始めとするアメリカ東部の支社を日にち刻みで巡回する予定になっていた。

渡航に丸1日。その後のヨーロッパ滞在は3日間だったが、何事もなく順調にこなした。
勿論、その間も日に何度かの、真音への連絡は欠かさない。

アメリカに入り、2日目。
嶺河はニューヨークで半日のオフを取り、五番街にいた。
目的地は、かの有名な「ティファニー」。
特別注文していた品を自身で受け取るために、わざわざ出向いたのだ。
通された貴賓室で、運ばれてきた布張りのトレーの上に置かれた品物を見た彼は、満足げに笑みを浮かべた。
一つは銀のベビースプーン。
もち手に誕生石になる予定のルビーをあしらった特注品だ。
そしてもう一つはトゥースフェアリー・ボックス。
小さな銀器の蓋にはくまのモチーフが施され、その目には、やはり小粒なルビーが埋め込まれている。
二つとも、生まれる子供が女の子と分かってすぐに発注したものだ。
もちろん真音には内緒にしてある。

日本で彼女と一緒に買い求めたベビーリングにもルビーがついているが、これには真音がかなり異義を唱えた。
「もし出産が遅れて8月になってしまったら、誕生石が変わってしまうのに」
予定日は7月28日。
初産は多少遅れることが多いと聞くので、かなり危ういタイミングだが、気にしなかった。
「もし出産が遅れて月が変われば新たに買い足せば良いよ。こういうものは、2つ3つあっても邪魔にはならないだろう?」
そう言い切る彼に、真音は呆れた顔をするしかなかった。

定番のティファニーブルーの箱に入れられ、綺麗にラッピングされた2つの箱を手に、意気揚々と待たせておいた車に戻った嶺河は、携帯にメールが入っているのに気がついた。
午前中はオフを取っているので、仕事がらみではないはずだ。
何事かと急いで確認する。

『陣痛が始まったもよう。至急連絡ください。詩音』


時差が13時間ほどあるので、今、日本は夜中の12時近くになっているはずだが、この際それは考えなかった。慌てて電話をすると、何と真音本人が出たのに驚く。
「まだ軽い収縮が不定期できている程度だから、本格的な陣痛までには時間があるみたい」
初産で加減が分からないために大事を取って入院させてもらったが、普通なら一度自宅に帰されるレベルだという。
だが、それを聞いても、彼の焦りは収まらなかった。
「何とかして、すぐに帰るから」
「大丈夫。詩音も志保さんもついていてくれるから。それに陽南子さんが連絡したらしくて、朝倉のお義父様とお義母様、それに大地さんもこちらに向かっているみたいなの。まだ、当分産まれないと思うのに、どうしようかしら…」
一番その場にいるべき自分ではなく、他の人間が先に駆けつけるのは何とも面白くない。
タイミングの悪さに嘆きのため息が出る。
「とにかく一番早い便で帰るから。それまで何とか頑張ってくれ」


支社に連絡を入れ、慌しくすべての予定をキャンセルすると、嶺河は滞在先のホテルを後にした。
ビジネスジェットを回す時間も惜しんだ彼は、すぐに定期便で一番先に発つ飛行機のファーストクラスを押さえると、そのまま機上の人となったのだった。



入院して一夜が明けたが、まだ真音の陣痛は本格的なものになっていなかった。
前夜の土曜日、やっと体調を回復した志保さんが戻って来て、早速夕飯を作ってくれた。
普通ならば真音も手伝うのだが、その日は朝から腰が痛んだために大事を取って横になっていたのだ。
食後、詩音が志保さんの側で、楽しそうに後片付けを手伝っている声が聞こえてくる。
詩音と志保さんだと、その年代の差は祖母と孫くらいになる。
小さい頃から祖母を母代わりに育ってきた詩音は、すぐに志保さんとも親しくなった。
それに、たまたま今日は陽南子さんも遊びに来ていて、女ばかりで賑やかな食卓を囲んだのだった。

「大丈夫?腰を擦りましょうか?」
クッションを当てて谷間を作り、何とかうつ伏せになっていた真音に声を掛けたのは陽南子だった。
「ありがとう、でも大丈夫。ちょっとお腹が張っちゃって」
「この暑い時にそのお腹だと大変ね」
そう言えば、彼女も良い色に日焼けしている。
多分また、大地の反対を押し切って現場にでているのだろう。

「えっ?」
急にお腹が引き攣れたと感じた直後、妙な違和感が足の間に起こった。
慌ててトイレに行くと、下着に軽く色のついたものが付着している。
様子を見に来た志保さんは、それを聞くとすぐに何やら準備を始めた。
「真音さん、多分それは『おしるし』ですよ。念のために病院で診ていただきましょう」

一応の出産準備はしてあるものの、まだ3週間近くあると思っていた真音は慌しく当面の荷物を作ると、陽南子の運転で病院へと連れて来られた。
診察の結果、まだ陣痛は弱いものの、子宮口が開き始めているので、準備のために入院してもよいとのことだった。
急に始まった出産に、皆慌ててあちこちに連絡を入れている。
志保さんと陽南子さんが、家に荷物を取りに戻ってくれた。嶺河には詩音が連絡を入れたようだ。
夜も遅い時間だが、産婦人科に時間は関係ないらしい。
今もあちこちから赤ちゃんの泣き声や、お産を待つ妊婦さんの声が漏れ聞こえてくる。
不思議な感じだった。
一年前には、一生縁がないと思い込んでいた場所に自分がいることが、まだ信じられない。
それも、こんな大きなお腹をして。
その時また、軽い収縮が来た。
下腹を擦りながら、真音はお腹に向かって話しかける。
「あなた、ちょっとタイミングが悪いわね。ちょうどパパがいないときに出てきたくなっちゃったなんて」
そんな時にかかってきたのが嶺河からの電話だった。

「まだ当分産まれないと思うから、ゆっくり帰ってきて」
とにかく慌てていて、すぐにでも飛んで帰ってきそうな勢いの嶺河を宥めてはみたものの、あとどのくらいこんな状態が続くのかは彼女にも分からなかった。
この時はまだ、この先にある道のりの長さを考えることもなかったのだ。


結局、嶺河が病院に駆けつけたのは翌日の夜だった。
途中何度も連絡を入れたが、付き添っている詩音の話では、まだ産まれる気配はないとのことだったが。
すでに入院してから20時間近くが経っている。
間に合うかどうか、彼は焦った。
そしてやっと病院に到着。
事前に二人で相談して、出産はLDRに決めていたので、病室が即分娩室になるはずだった。受付で場所を聞き、脇目も振らずそこを目指す。

間に合ってくれ…。

祈るような気持ちで廊下を突き進み、真音の名前のプレートが入った部屋に飛び込んだ。
だが…
「一体どうしたんだ?」
そんな彼が目にしたのは、まだ大きなお腹を抱えたままで病室の中を歩いている真音の姿だったのだ。




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