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雪のミラージュ番外編

夏の音色にのせて  1


「よいしょ」
真音が、大きく突き出したお腹を抱えながら立ち上がろうとする。
側に座っていた嶺河が透かさず差し伸べるた手を握ると、弾みをつけて腰をソファーから浮かせた。

7月末に出産を控えた彼女は、二月ほど前に別荘のある八ヶ岳から東京の自宅へと帰ってきていた。
滞在先として、嶺河のマンションよりも実家を選んだのは、こちらの方が出産を予約している病院から近いことや、周囲の環境に馴染んでいること、それに卒業式を終えた妹の詩音が産後の手伝いも兼ねて、一時帰国してくることが分かっていたからだ。

当然のように、真音が帰って来ると同時に嶺河もここに移って来た。
マンションから仕事に通うよりかなり時間はかかるようになったが、何よりも愛妻を優先する彼はそんなことは気にも留めていない。
忙しい仕事の合間を縫って検診には必ず付き添ったし、立会い出産ための講習を受け、呼吸法もマスターした。
出産が始まった時に側にいられるようにと、7月中旬以降は長期の出張も予定から外すという念の入れようだ。

「そろそろ荷物をつめないといけないわね」
嶺河には、週明けから10日間の海外出張が組まれていた。ヨーロッパ、アメリカ東海岸の支社を回る予定で、これが終われば当分の間海外への出張は免除されることになっている。

「本当に一人で大丈夫か?」
出張に出かけるのが月曜日の午後。
詩音が帰国してくるのは水曜日。
1日の空白があることが彼にはどうしても気がかりなようだ。
「大丈夫よ。まだ予定日まで間があるし。何かあったら陽南子(ひなこ)さんにお願いするから」

陽南子さんとは義姉、つまり兄の大地の奥さんだ。
これまで住み込みでいろいろと面倒をみてくれていたのは、朝倉家のお手伝いさんである志保さんだったが、先日来風邪で体調を崩し、今は大事を取って休んでもらっている。
志保さんは「こんな時に風邪ごときで休むなんて」と抵抗したが、出産間近である真音にうつさないためだと説得すると、「仕方がございませんね」と渋々と了承した。

「まぁ、陽南子さんなら大丈夫だな」
義姉は家事はからっきしダメだが、とにかく体力がある。
そこらの男たちよりも鍛えられた身体は、数十キロの建材を軽く担ぎ上げてしまうほどだ。
おそらく真音程度の体重ならば楽々と運んでしまうだろう。

「荷造りしている間に、今日届いた荷物を子供部屋に運んでおいてくださる?」
配達されたダンボールの中身は巨大なぬいぐるみ。
朝倉の両親が送ってきたものだ。
彼らは最近、どこかに出掛けると子供の土産を何か必ず買ってくる。
今回は超特大のくまのプーさん。
あの熟年夫婦がどんな様子でこれを選んでいるのかと想像するだけで笑えてくる。

真音に言われて側においてあった箱を持つと、彼は廊下の端にある部屋の扉を開けた。
目に入るのは優しい色合いの花柄の壁紙。
すでに備え付けられているベビーベッドは無垢材で、カバーやマットは柔らかなピンクで統一されている。
箱を収めようと開けたクローゼットの中も赤やピンク、黄色といった華やかな色合いのベビー服が所狭しと吊り下げられていた。


お腹の子供が女の子だと分かった時の、家族の興奮は大変なものだった。
朝倉家が分家してから今まで、自分を含めて生まれたのは男ばかり。
女児に恵まれたことがなかったのだ。
五世代目にしてはじめての、待望の女の子。
自分だけでなく、両親、兄夫婦、そして義妹の詩音までもが何かにつけて子供のものを買っては送って来る。
お陰でクローゼットの中は、すぐに満杯の状態になってしまっていた。

「こんなにあって、全部着られるかしら」
いつの間にか子供部屋に来ていた真音が、嶺河の背中越しに中を覗き込んでいる。
「一日三回のお召し替えをすれば大丈夫だろう」
わざと茶化して言うが、実際そのくらい大量の服がぶら下がっているのだ。もちろん、整理ダンスの中も可愛い柄の靴下やなんかで既に一杯だ。
「この子は本当に恵まれているわ。生まれる前から皆にこんなに愛されて」
向かい合って彼女の手に自分に手を重ねてゆっくりとお腹を擦る。
「最近あまり動かないな」
「臨月に入ると、そういうものらしいわよ」
嶺河がお腹に向かって話しかける。
「準備は万端だ。いつ出てきてもいいぞ。あ、パパが出張中は出て来たらダメだからな」
それを聞いた彼女がクスクスと笑う。
「まだもうちょっと大きくなってくれないと、ね」
前回の検診では、まだ体重が2000gを少し超えるくらいしかなかった。もう少し成長してから出産した方が子供のためには良いのだそうだ。

予定日まで、あとひと月。
何事もなく五体満足で無事に生まれてくれれば。
二人ともただそれだけを願っていた。



週明けの月曜日。
嶺河は後ろ髪を引かれる様子で出張へと出掛けて行ったが、心配していた翌日は、何事もなく過ぎた。

翌、水曜日。
詩音が帰国。
久しぶりに姉妹水入らずで、のんびりと過ごした。

木曜日。
検診には詩音が付き添った。今のところ順調で異常なし。
翌週からは毎週検診となるので予約も済ませてきた。

そして土曜日。
元気になった志保さんが戻ってきた。
夕方には話題の人気店のスイーツを持った陽南子さんも遊びに来てくれて、皆で賑やかな夕食をとった。

そんな中、それは突然に始まった。




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