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雪のミラージュ番外編

秘書室次長 高野氏のある一日  前編


私が勤務する総合商社 朝倉は、今や世界有数のコングロマリットであるが、その前身は朝倉物産という、いわゆる戦前の政商だった。
創始者の朝倉巌氏から数えて、今の社長で三代目となる。
数年前から体調を崩し、第一線を退いた社長に代わって現在会社を統括しているのは、長男で副社長の朝倉大地氏。
昨年再婚して私生活も落ち着いた今、権威譲渡のお膳立てが整ったとみなした社長は、最高責任者の地位を長男に譲り、自らは名誉職である会長に退く決意であることを社内に明らかにした。
その手始めとして人事の一新に着手、当面副社長は空席とし、専務取締役に次男の嶺河氏が昇格、役員も半数を出向、転籍させて旧体制の一新を図った。
そして役員理事会で承認の後、新体制の正式な発表の場は「朝倉」創立100周年記念のパーティーと決まった。


通常、我が社は5年の節目ごとに創立記念パーティーが開かれるのだが、今年は特に規模が大きく盛大な催しとなった。
元々今回は100周年という大きな区切りの年である上に、新社長の就任とそれに伴う人事交代が話題を呼び、一層参加者を増大させたのだ。
秘書室が中心となり招待客リストの抽出をした後、各セクションで招待状の発送をかけさせたのだが、当初の招待客の見込み数をはるかに上回った状況でも、まだ同伴者の追加や、新たに招待状を求めるオファーが退きも切らずに押し寄せた。
その数の多さに、対応窓口となり、それを選別しなければはならない当秘書室はかなり苦慮した。

加えて、特に今回はマスコミの取材攻勢がすさまじい。
通常ならばこういった経済ネタに縁のない、ワイドショーや週刊誌までが取材記者章の確保に奔走している。
数年ぶりに創立者一族である朝倉ファミリーが揃って人前に出ることもあるが、何と言っても話題の矛先は独身時代に派手な私生活で鳴らした大地、嶺河兄弟に向いていた。

昨年再婚した大地氏は結婚式、披露宴共にマスコミには非公開としたため、余計に世間の興味を煽る結果となった。
今では頻繁に夫婦同伴でいろいろなところに出席しているので、記者に追い回されるようなことはなくなったが、今度は毎回変わる夫人の衣装を目当てにセレブ向けのファッション誌が取材を申し入れてくるようになった。
今や夫人はファッションリーダーの一角とみなされているらしい。

一方、嶺河氏夫人、真音さんのことについては一切極秘。
式や披露宴をしたのかさえ、公表されていない。
その上、妻となった女性が嶺河氏よりも年上で、建築家 片桐章吾氏の未亡人であり、ヴァイオリニストの故、西山奏氏の娘とくれば、そのあたりの芸能ネタよりはるかに興味を引く取り合わせだ。
真音さんの場合、幼少時を海外で過ごしたため、国内で発掘できる写真やエピソードがほとんどない。
その上、すでに懐妊中の彼女を朝倉家が一丸となって守ろうとしたために、マスコミへの露出は完全に封じられた状態だ。
この秘密めいた存在に、女性週刊誌を筆頭としたマスコミが食いつかないわけがなかった。
ちなみに、今現在彼女の妊娠を知っているのは秘書室の限られた社員だけで、しっかりと緘口令を敷いてある。
ウチの課の女性社員たちは皆、他の課の人間に言いたくて仕方がない様子だが、守秘義務がある当課ではこれは絶対の内分だ。




5月10日 会社設立記念日。
朝倉のグループ会社で働く一般の社員はほとんどが休暇日となる。
総務課、広報課、秘書課等、催しに関係する課の社員は出勤となるが、今年は例年になく他の課からも多数の応援希望者があった。
社をあげての催しを、休日返上でバックアップしようという社員の心意気はある意味ありがたいのだが、当惑もしている。
その理由は、設営に携わった応援社員のほとんどが、実のところ、嶺河の妻を間近で見てみたいという野次馬的な発想 で志願してきたのが分かるからだ。


「ねぇ、専務の奥さん、ここからも見えるかしら」
裏方に回された社員が、会場のセッティングに追われながらもおしゃべりをしている。
「多分小さくなら見えるんじゃない?秘書課の話だと、奥さんはパーティーだけ出席して、あとは出てこられないそうだから、見るならその時しかチャンスはないわね」
当日動員された社員たちには、パーティー終了後、慰労の軽食が用意される。
いつもの年ならば社長以下、重役や夫人たちがその場に寄って労をねぎらうのだが、専務夫人は私事のため欠席と伝えてある。もちろん彼女の体調を考えての辞退だろう。
「あーワクワクするわ。だってまだ誰も見たことのないツーショットを直に見られるんだから。休日が一日潰れたくらいどうってことないわよ」

公式行事には必ず夫人を同伴する大地氏と違って、嶺河氏はまだ一度も妻を公の場に出したことがない。
妊娠初期に切迫流産を起こしかけたせいもあって、氏を始めとした朝倉の家族たちは皆、真音さんの体調には過保護なほどの気を使っている。
このパーティー出席のために帰京するまでずっと、信州の彼女の別荘に滞在させていたことも余計な人目に晒されずに済んだ要因の一つだろう。
社員ですら見たことのない夫人のことは、社内でもいつも話題になっていた。
私自身、真音さんには一度だけお会いしたことがあるが、柔和でおっとりした方だという印象だ。
癒し系というか、和み系というか、とにかく側にいるだけでのんびりと寛げる、そんな雰囲気を纏っている。
あの専務を射落としたのだから、さぞ妖艶な女性だろうと想像していた私は、そのギャップに驚かされたものだ。


午後1時、開場と共に招待客がばらばらと入り始める。
ホテルで一番大きい広間は円卓で1000人収容のキャパシティーがあるが、今回は立食形式となった。
結局、招待客が1000人では収まり切らなかったためだ。
広間の入口あたりにはマスコミ関係者が待機し、頻りに到着した客たちの顔ぶれをカメラに収めていた。
取引関係者の他、芸能人、スポーツ選手等、かなり豪華な顔ぶれが招待を受けている。取材のし甲斐もあるだろう。
ドアの中で客を出迎えるのは会長以下、社長に就任した大地氏、それに嶺河氏の他、新役員たちも顔を揃えていた。

次々と列をなす客たちの祝辞は途絶えることがない。
それは立場によってまちまちで、取引関係者からは会長、社長就任の、友人知人や親族からは真音のおめでたへの祝いの声もかけられる。
さすがに招待客にまで口止めすることもできず、結局あっという間にその話は広まってしまった。
そこで嶺河夫人の妊娠を聞きつけたマスコミが、俄かに活気付いた。
今までは厳重な取材規制で、どこの社も夫人の現在の写真を入手できていなかった。すでに懐妊中となると、その姿をとらえるだけでスクープ記事になる。
お陰で広報室と秘書室は、ひっきりなしの情報確認の催促で大混乱に陥った。
一時は会場で陣頭指揮を取っていた私も、応対に引っ張り出されたほどだ。


2時過ぎになって、客の入場がひと段落ついたところでようやくパーティーが始まる。
一旦控え室に戻った朝倉の面々も、今度は夫人を同伴して会場に入るのだ。
和やかなクラッシックが流れる中、会場の照明が半分ほどに落とされる。
そしていよいよ、皆が待ちうける朝倉一族の登場となった。




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