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   セカンド ・ マリアージュ  9


翌日、奏子は職場となった厨房で改めて同僚たちに紹介された。
前日に一緒に仕事をした中本と西、そして怪我で早退した渡部の他に、辻と吉田という古参のパートがいる。後の二人は中本たちと同年代か少し上のようだが、彼女たちより幾分おっとりした感じの人たちだ。
少し前に人員が減って以来このメンバー5人で何とかやりくりしていたが、やはり慢性的に人手不足になっていたらしい。責任者の中本以外は全員パートということもあり、今のままだと働き過ぎて扶養家族としての所得制限にひっかかってしまう者や、腰痛などの持病で連日の就労が困難な者もいて、若い奏子はその穴を埋める即戦力として大いに期待され、歓迎されたのだった。
5人いる同僚たちの中でも特に渡部は姉の里佳子と同世代で、母親より少し年代が上の中本達に比べて話しやすく感じられた。それに皆から一歩引いた場所で、賑やかなおばちゃんたちの話に耳を傾けている渡部は人見知りをする奏子にも通じるところがあり、気が付けば二人、厨房の隅っこに一緒にいることも度々だった。
渡部はまだ小学生の子供と二人暮らしで、できれば夜遅い時間の仕事は避けたいと言う。今は夕方から出てくる時には子供は母親が帰るまで家に一人きりになっていると知り、短時間でも誰か子供の面倒を見てくれるような親戚はいないのかと奏子が聞いたが、渡部は何か事情があるらしく、頼れる人も場所もないと答えた。
これ以上詳しいことは聞かなかったが、もしも人手に余裕ができれば、あるいはそういったシフトにしてもらえるのではと期待はしているようだ。
ちょっと当てにされ過ぎているのが怖いところだが、とにかく職場では自分が思っていた以上に歓迎されているようで、奏子はほっと胸をなでおろしたのだった。


それからの半月はあっという間だった。最初は指示を出してくれるまでただぼんやりと立っているだけの奏子だが、何度か同じ作業を繰り返すうちに自分がどこで何をすればよいのかが飲みこめてくる。それでも分からない時には遠慮せず誰かに用事を聞くようになってからは、仕事に馴染むのも割合早かったように思う。
元から繊細な料理はあまり得意ではなく、素でいくと大雑把になりがちな性格の彼女は、仕上がりの美しさよりも仕事量をこなすことを求められる作業は気分的には楽だった。

「はい、奏子へプレゼント」
「えっ、何?」
週末、久々に彩乃とゆっくり夕食をとっていた奏子は、友人が取り出した小ぶりな手提げ袋を不思議そうに見つめた。
今日は誕生日でもなければ記念日という訳でもない。それでも目の前に差し出された袋を受け取り、そっと中をのぞきこんだ。
「そんな大したものじゃないってば」
奏子の恐る恐ると言った様子に、彩乃が笑った。
「これ……」
彼女が袋から取り出したのは、チューブ入りのハンドクリームだった。ローズの香りとレモンの香り、シアバター入りで保湿に優れ、香りもよいと評判のものだ。
「奏子、最近目に見えてひどくなっているでしょう?少しケアしなさいよ」
仕事で食品を扱うので手洗いが増えたことや、食器や鍋の下洗いの時に洗剤を使うことで肌荒れが悪化してしまう。特に今の時期にはちょっとしたことで湯を使うことも多く、どうしても脂分が取られて手がカサカサになってしまうのだ。
ぱっくり割れた指先を見た中本からは手袋を使うように勧められたが、ゴムの感触と蒸れが苦手な彼女はついつい素手でお湯に触ってしまい、手荒れは悪化の一途をたどっている。
立ち仕事だからどうしても足がパンパンに浮腫むし、汗で落ちるファンデーションも塗るのを止めた。その所以で今彼女がしているのは、マスクに色がつかない薬用のリップだけだ。
「それからこっちはフェイスマスク。たっぷり保湿成分が入ってるから、これもやっておくべし」
「私、そんなに酷いことになってる?」
渡された奏子は礼を言いつつも苦笑いする。
「うん、ちょっとね」
彩乃から見れば今の奏子は以前に比べていきいきしていると感じられる。それは恐らく本人が楽しく仕事に出かけているからそのように見えるのだろう。
しかし如何せん、今の彼女はあちこちがぼろぼろだ。化粧をしなくなった顔はかさついているし、手は可哀想なまでに荒れ放題で、今では家の食事の後片付けは極力彩乃がするようにしている。もちろん、奏子は自分がすると言って聞かないが、あの手で水仕事をさせるのはどうにも忍びなく、冬のボーナスが出たら本気で食洗機を買おうかと考えているほどだ。
「前より出掛ける機会が増えているんだから、出会いのチャンスだっていつどこに転がっているか分からないでしょう」
「ないない、それはない。100%ない」
「職場にいるのはパートのおばちゃんたちだけだし」と奏子が言うと、「食べに来る人は男の人ばっかりでしょう?」と彩乃に切返されて言葉に詰まる。
確かにそうだが、今のところ外向きのことをしていない彼女には、食堂に来る男性と接する機会はほとんどない。会話をする異性といえば、時折厨房に顔をのぞかせる守谷くらいなものだが、彼とも週に2、3回挨拶をする程度のものだ。
「でも、ないものはないんだから」
自分のからかいを本気で否定する奏子に、彩乃は心の中でため息をつく。
離婚という山を越えたことで他人からの雑音を受け流す余裕も出てきた奏子だが、男性に関することは未だに取りつく島もない。その根底にあるのは頑固な自己否定だ。
やっと自分の意志で自身の将来を決めることに目覚めたものの、不毛な結婚生活で傷ついた気持ちはそんなに簡単に癒えるものではないのだろう。それが分かっていても、彩乃はつい余計な世話をしてしまう。まだこの先の人生は長いというのに、二十代半ばにもならない彼女が異性との接触に臆病になってしまったことは嘆かわしく、傍から見ていても歯がゆくて仕方がなかった。
「分かった分かった。でも、顔のお手入れだけはしっかりしておきなさいよ。いくら忙しくても女を捨てちゃダメだからね」
「……うん、ありがとう」
奏子は彩乃がくれたものを袋の中に戻すと、それをぎゅっと抱きしめてにこりと笑った。
それを見て彩乃も微笑み返す。
学生時代、同じ時間を分け合った友人同士。互いを思いやる気持ちは今も変わらないのが嬉しい。
こうしてその週末はのんびりと過ごした奏子だったが、週が明けるとまた忙しない日が始まる。その週からは本格的にシフトに組み込まれた彼女の慌ただしい一週間はあっという間に過ぎていった。ありがたいことに今のところあまり大きな失敗もなく、想像以上に忙しいことを除けば概ね仕事は順調だ。
そしてまた、週末の金曜日。
その日は午前のみのシフトに入っていた奏子は、少し遅れた朝の仕事を終えて帰り支度をしていたところを中本に呼び止められた。
「あ、カナちゃん、今ちょっといい?」
「はい」
何事かと側に来た彼女は、中本から小さなメモ用紙を渡された。
「これ。来週まででいいからどこかで調達してきてくれないかな」
見ればのしがき用と思われるメモと、予算が書かれている。
「これは?」
「ああ。ここにいた子が来月の頭に退寮するんだよ、結婚でね。結構長い付き合いだったから、お祝いと餞別を兼ねて何か贈ろうと思ったんだけど、私や西さんじゃ若い子向けのものはよく分からなくってさ。ちょっと頼まれてくれないかなと思って」
中本が話す男性の顔はおぼろげながら奏子も知っていた。いつも必ず返却口で「ごちそう様」と言ってくれる、三十代前半くらいの人だ。
「それは構いませんよ。あ、でも私もあまり男の人の欲しいものは分からないかも」
奏子が知る若い男性といえば兄か元の夫くらいのものだ。彼らの基準で選んでも良いものなのか、彼女には判断がつきかねる。
少々困ったなぁと思っていると、厨房の勝手口が開き、そこから守谷が顔をのぞかせた。それを見た中本が何かを思いついたようにぽんと手を打つ。
「ああ、守谷さん。ちょうど良かった。あんたにお願いがあるんだけど」
手招きされた守谷が訝しみながら入って来る。
「ちょっと頼まれてくれない?」
中本がその話をし始めたのを見た奏子は、自分は用済みのようだとほっとしながらその場を離れようとする。
「あ、ちょっと、カナちゃん。あんたもだよ」
「はい?」
中本はにやりと笑い、奏子を守谷の方へ押し出した。
「二人で行って選んできてくれないかい?結婚祝いだから男女両方の目で選んだ方がいいと思うんだよ」
そう言うと、彼女は有無を言わせず守谷にお金の入った茶封筒を押し付けた。
「それじゃ頼んだよ」

妙に強引な依頼をして去っていった中本に唖然としている奏子と、それを苦笑いで見送る守谷がその場に残された。
「何なんですか、これ?」
「ああ、まぁ……中本さんお得意のアレですね」
「アレ?」
「変な気を回しすぎなんですよ、彼女は」
遅ればせながら守谷の言わんとするところを察した奏子は顔を引き攣らせた。
「どうしたらいいんでしょう?」
「そうですねぇ……」
守谷もお手上げというように肩を竦める。
「久世さんは明日、何か予定は入っていますか?」
「いえ、別段これといっては」
いつも週末は、滞りがちになっている家事をこなし、それでも時間が余ればお菓子を作ったりするくらいだ。
「それなら一緒にこれを選びに行きませんか?どのみち誰かがお祝いを選ばなくてはならないんでしょうし」
彼はそう言うと、渡された封筒を内ポケットにしまった。
「でも……」
「無理強いはしませんが、できれば女性の視点で意見をいただければありがたいんですが」
押しは強くないのに、守谷のやんわりとした誘いはなぜか断りにくい。
気が付けば奏子は「わかりました」と答えていた。
それから二人は待ち合わせの時間を場所と決め、守谷は事務所に戻り、奏子は自転車で帰宅の途につく。
何だか上手く押し切られた感が否めないが、とにかく受けてしまったものは仕方がない。まぁ、デパートで品物を選ぶだけならそんなに緊張することもないだろう。
帰り道の自転車でそんなことを考えながら、彼女は何となく割り切れない気持ちのまま、翌日のことに思いを巡らせていたのだった。




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