実際のところ、ドアの向こうにあったのは、かつて経験したことがないほどの忙しさ。ひとことで言えば……修羅場だった。 家にあるものの3倍はあろうかという、巨大なステンレス製のボウルに山盛りの野菜がどんどん下準備されていく。綺麗に見えるように大きさを揃えて、なんて悠長なことを考える間もなく、奏子はひたすらに根菜類をガシガシと切り続けた。 「これ、貰っていくよ。西さん、これも、そっちに入れて」 不揃いな野菜が入ったボウルを取り上げた中本が、鍋の様子を見ていた西にそれを手渡す。 「はいよ。それからこのキャベツをスライサーにかけて」 「あ、カナちゃん。先にこっちやって。手を削らないように気を付けてね」 「は、はいっ」 何時の間にやら二人の女性に「カナちゃん」と呼ばれるようになっていた奏子の前に、今度は大玉のキャベツが3個入った箱がどんと置かれたのを見て目を丸くする。 「これ、全部切っちゃうんですか?」 「そうね。足りなかったら、あと半分くらい足してもいいかも」 これでもまだ足りないのか…… 自分と彩乃の二人ならこれ一玉消費するのに毎日食べても1週間はかかりそうな代物だ。それを3玉、しかもわずか一食で食い尽くすとは。 付け合せのキャベツを細く綺麗に千切りすることにはちょっと自信があった奏子だったが、さすがにこれだけのものを一人でしかも包丁でこなすのは無理だ。 彼女は言われた場所からこれまた家にあるものの3倍くらいは大きさがありそうなスライサーを持ち出し、四分の一にカットしたキャベツをひたすら細く削っていく。 それを水に晒そうとボウルを抱えて蛇口のところに持ってきた奏子の目に飛び込んできたのは、大きなお玉で砂糖を掬って鍋の中に入れている、西の姿だった。 「うわ、すごい……」 大さじや小さじなんて可愛いものじゃない、業務用のお玉だ。それも山盛り。思わず漏れた呟きに、西は豪快に笑った。 「何せ賄う人数が多いからね。おまけに食べるのは男ばっかりときたもんだ」 そう言いながら、今度は醤油を、それも業務用の取っ手がついたペットボトルに入ったものを、1リットルくらいはゆうにあろうかという大きな計量カップで測り、どどっと鍋に流し込む。 中本の方はといえばコンロ脇にあるフライヤーにつきっきりで唐揚げを揚げているのだが、使うとり肉はボールに山盛り二杯、通常パック詰めで市販されているお肉の何枚分いや、何十枚分だろうかと思わざるを得ないくらいの量だ。 切り終えたキャベツにニンジンの千切りやスライスオニオンを加え、更に量を増やしたところで今度はそれをお皿につけていくように言われ、手袋をした手でひたすら掴んでは盛るという単純作業を繰り返す。 その皿に揚げ物と他の付け合せを置き、やっと一段落ついたかと思いきや、次は味噌汁作りに取り掛かる。 お玉では探りきれないなべの底を擦るようにかき混ぜるのに使うのは、飾り物のように巨大なしゃもじだ。船のオールを漕いでいるような感覚で味噌汁を混ぜるのは妙な感じで、奏子は自分がまるで一寸法師にでもなったような気がした。 こうして出来上がった味噌汁を何十個というお椀によそいながら彼女は思った。 これは料理というよりは、最早ちょっとしたスポ−ツね、と。 何とかすべてのメニューが揃った頃を見計らったかのように、ぽつりぽつりと食事をする従業員たちが食堂に集まってくる。 カウンター越しの受け渡しは中本と西に任せ、奏子は食堂に背を向けるような格好で一人黙々と使った鍋やボウルを片づけていた。 返却口に置かれた食器類は基本的に大型の食洗機にかけるということで、軽く汚れを落とすとそのまま機械の中に並べていた奏子は、自分がカウンターの向こうからチラチラと見られているのを感じて思わず奥のシンクの方へと逃げ込んだ。 ざっくりしたエプロンをかけているし、キャップで髪の毛も隠れている。顔だって大判のマスクで目以外はほとんど出ていないのに、相手が男の人ばかりだからだろうか、自分が見られているということに微かな抵抗と戸惑いを覚える。 女子校育ちの奏子は、特に若い男性に対する免疫がほとんどない。そのせいで相手が自分をどう見ているのかを察することができないし、またそういった人に対する怯えみたいなものも多分に持っている。ましてやここにいるのは今まで彼女が接してきたような、礼儀正しく取り澄ましたホワイトカラーばかりではなく、むしろ体を張った労働に従事する、見るからに男くささを滲ませるような男性の方が多いくらいだろう。 情けないことだが、奏子はそんな人たちを前にすると、どうしても腰が引けてしまう。 それではいけないと自分でも気づいてはいるのだが、困ったことに苦手意識と言うものはなかなか簡単に取り除かれるような類のものでもないのも確かだ。 もし何か言われたらどうしよう。 自意識過剰だが、それでも自分に注意が向けられていることが奏子を臆病にする。 そのせいで彼女は返却口をうかがって、少し溜まってきたらできるだけ人がいない時をねらって捌かせに行くことを繰り返した。 食堂がやっと静かになった頃には午後8時が過ぎていた。 その日の仕事はほぼ終了し、後はベテラン二人が翌日の朝食の仕込みをするだけになった。 「お疲れ様、助かったよ」 マスクを外した中本にそう言われ、奏子はやっと自分の役割が終わったことを実感した。 「本当に。さすがにおばちゃん二人だけじゃ多分無理だったわ。よく頑張ってくれたね」 西もそう言ってキャップを取り、自分の肩をとんとんと叩く。 「明日からもよろしくね」 「こちらこそ、ありがとうございました」 クリーニングは会社の方でまとめてしてくれるということで、自分が脱いだエプロンやキャップを渡しながら、奏子は二人にぺこりと頭を下げた。 今日彼女がしたのは下っ端の、それも見習いレベルの仕事かもしれない。それでも自分が働いたことを他の人に認めてもらったことが、今の彼女には何よりも嬉しかった。 「終わりましたか?」 その時、タイミングを計ったかのように、守谷が厨房に現れた。 「あれ、守谷さんまだ帰ってなかったのかい?」 西にそう言われた彼が苦笑いする。 「ええ、まだ彼女に伝えることがありまして。なかなかそのチャンスがなかったので」 「そうかいそうかい、そりゃ悪かったね。だったらもうカナちゃんを連れて行ってもいいよ」 「カナちゃん?」 改めて守谷にそう呼ばれると、何だか気恥ずかしい。 「そう。可愛いだろう?楚々として擦れてなくて。こんな子、今どき珍しいよ。守谷さん、あんたの嫁さんにどうだい?」 更にそう言い募られ、奏子はいたたまれずに俯いてしまった。 「ほら、あんまりからかっちゃ可哀想だよ。守谷さん、途中まで彼女を送ってあげてくれる?初日からいろいろと大変だったから」 「そうですね、それでは久世さん、行きましょうか?」 中本の助け舟でようやく解放された奏子が私物を持ってドアから出ると、もちろん外は真っ暗で、11月の夜風は上着を着ていても少し肌寒いくらいだった。 「本当ならば書類をお渡しするはずだったのですが、明日にします」 守谷はそう言うと自転車置き場の方へ歩き出す。 「分かりました」 少し後ろをついていく奏子は、彼が急に止まったのに驚いて小さく息を呑んだ。 「久世さん」 「はい」 何を言われるのかと身構える様子に、守谷は少し困ったような顔で彼女を見た。 「今日はお疲れ様でした。慣れるまではいろいろと大変だと思いますが、頑張って下さい」 そして彼は何か困ったことがあればいつでも相談してほしいとも言った。 「ありがとうございます」 思わぬ激励に、奏子の心に嬉しいような恥ずかしいような、複雑な気持ちが過ると同時になぜか頬が赤らむのを感じる。 「あ、あの、自転車なのでここで失礼します」 奏子は守谷に向かって頭を下げると、そのまま自転車置き場の方に向かって走り出す。 「気を付けて」 背後から聞こえてきた彼の声に、奏子は一度足を止めて振り返り、再度ぺこりとお辞儀をした。 「ありがとうございます。おやすみなさい」 「ああ、お休み。また明日」 軽く手を挙げた守谷に手を振り返し、奏子は自分の自転車に向かって歩き出す。 「何か頑張れそう」 自分でも現金だなとは思うが、働いたことが誰かに認めてもらえたことが、彼女は嬉しくて仕方がなかったのだ。 「さて、帰ろうかな」 奏子は鼻歌混じりに帰り道の自転車のペダルを漕ぐ。 その夜の土産に、仕事への確かな手ごたえと心地よい疲れを携えながら。 HOME |