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   セカンド ・ マリアージュ  7


「どうしました?」
守谷の背中に隠れてはっきりとは見えないものの、どうやらその女性は左手の指、もしくは甲のあたりをひどく傷つけているようだ。フェイスタオルが血で赤く染まるとなると、かなり深い傷に違いない。
「あ、野菜を切っていたらちょっと包丁が滑ってしまって。大丈夫です。そんなに大きな傷ではないから」
「あんた、何言ってるんだよ。そんだけばっつり切ってしまったら、簡単には治らないよ」
そう言いながらタオルで女性の左手を押さえているのは、先ほどの中本とあまり年が変わらないくらい女性だ。 
「すぐに医者に行ってきな。血が止まらないようなら縫って貰った方がいい。その方が治りも早いし」
「でも、今日はただでさえ人が少なくて大変なのに」
怪我をした女性はなかなか首を縦には振らない。そうしているうちに、中本がビニール袋に入ったままの未使用のタオルを数枚握って厨房に帰ってきた。
「こんなのしかなかったけど、新品できれいだと思うからこれを使って」
そう言うと手早く包装を取り、赤く染まったタオルを外した後に素早く押しつける。
「すぐに病院に行きますか?今ならちょうど午後の診療が始まる時間帯だから」
縫合なら外科ですね、と守谷が自分のスマホで近隣の病院を検索し始める。
「あ、本当に、もう大丈夫です。包帯か何かできつく縛っておけばそのうちに血も止まると思いますから。水仕事は無理でも配膳とかなら……」
「そんな手で仕事なんかできやしないよ。悪いこと言わないから病院で診てもらってきなよ」
「でも……」
特に今日は通常は4人でこなす仕事を3人でやっているのだ。それもあって、普通ならば後片付けや掃除をメインにする遅番まで通常出勤で、フル稼働している状況だった。
「でも、いくらなんでも中本さんと西さんだけじゃ……」
「あ、あの……」
それまで部屋の隅で成り行きを見ていた奏子がおずおずと口を開く。
「私、でよかったら、お手伝いしましょうか?」
「久世さん?」
その言葉に、守谷と中本が少し驚いたような顔でこちらを見た。
「いのかい?」
中本の問いかけに、奏子は小さく頷く。
「味付けとか、難しいことはできませんけど、おかずをお皿に盛ったりご飯をよそおったり、あと後片付けの食器洗いくらいなら」
奏子がそう言うと、中本が嬉しそうに笑った。
「それだけでも充分助かるよ。なら決定だ。今日はとりあえずこの子に助っ人をお願いして何とか乗り切るわ。だから渡部さんも安心して病院に行っておいで。でもその怪我じゃぁ自転車には乗れないね。タクシーでも呼ぼうか?」
「いえ、それには及びません。渡部さんは僕が病院に連れて行きます」
守谷の申し出に、中本と西はほっとしたような表情をする。
「そんな、ご迷惑をお掛けするわけには……」
「病院まで送って行くだけですよ。帰りはタクシーを使うか家の方に迎えに来ていただくかになりますから、そんなに遠慮しなくてもいいです」
守谷のその言葉で、中本にポンポンと肩を叩かれた女性が戸惑っているうちに話は勝手にまとまったようだ。
「え、でも……」
「そう?悪いわね。大丈夫だよ、渡部さん。守谷さんに頼んだら安心だ」
どうやら手を怪我した女性は渡部という名前らしい。
中本たちが話をしている間にもう一人の年配の女性が厨房の奥の方から持て来たカバンや上着を守谷に渡すのを見ると、彼女は皆に向かって頭を下げた。
「ご迷惑をお掛けして、すみません。それじゃぁちょっと行ってきます」
「ああ、行っておいで。それから、今日はもうこのまま帰っていいから、無理せず大事にするんだよ」
「でも……」
「いいからいいから。今日はこの子に頑張ってもらうからね」
そう言って中本に背中を叩かれ、驚いた奏子は目を白黒させた。
「そうですか……分かりました。後はよろしくお願いします」
彼女の荷物を持った守谷に促され、立ち上がった彼女は、入口で再度頭を下げるとそのままドアの向こうに消えていく。扉を押さえていた守谷もこちらに軽く会釈をして彼女の後に続いた。
「さて、仕事仕事。後れを取り戻すわよ」
もう一人の年配の女性―― 彼女は西さんという名前だそうだが ――はポンと手を叩くと厨房に戻って行く。残された中本は奏子に向かって手招きをした。
「ちょっとこっちに来て」
彼女が連れて行かれたのは、厨房の奥にある小部屋だった。そこの壁際にスチール製の簡易ロッカーが並べられていて、部屋の真ん中あたりには小さなテーブルとパイプ椅子が3つほど置かれている。
「ここ、更衣室兼休憩室ね。ロッカーは空いているところを使って。ただし鍵がかからないから貴重品は持ち込まない方がいいかもよ」
中本はそう言いながら一番奥にあるロッカーから白色で袖のある、割烹着のような上着を取り出した。
「次回来る時までには新品を用意しておくから、今日はこれを使って。ちゃんと洗濯はしてあるから。あ、でもその服汚れちゃうかもしれないけど大丈夫?」
「平気です」
奏子は手渡されたエプロンとキャップを胸に抱いて頷く。
「そう、何か忙しいことになっちゃったけど、今日はよろしくお願いするわ。してもらいたいことはできるだけ指示するけど、分からなかったら何度でも聞いてちょだい。私でも西さんでもどっちでもいいからね」
「はい。お願いします」
「こちらこそ。それじゃ準備が出来たら来て」
中本はそう言い置いて先に更衣室を出て行く。
残された奏子は着なれない割烹着スタイルのエプロンに袖を通すと後ろのボタンを掛け、それから髪の毛を一つにまとめてゴムで束ねる。
とりあえず、空いていたロッカーに持っていたカバンと上着を押し込み、扉の内側についている小さな鏡をのぞきこむと、そこには不安そうに強張った自分の顔があった。
思わぬ形で初仕事を迎えることになってしまったが、今はそれを憂いている余裕すらない。
奏子は両手でパシッと自分の頬を叩いて気合を入れた。
「頑張れ、私!」
彼女は鏡の中の自分に頷くとロッカーを閉めて部屋の出入口へと歩き出す。その先にあるものが、必ず自分を変えてくれる何かだと信じて。




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