BACK/ INDEX




   セカンド ・ マリアージュ  60


今、「やり直せるチャンスをもらえるかも」って言った?
するりと耳を素通りしていく声を何とか引き寄せ、奏子は頭の中で何度も彼の言葉を繰り返す。
やり直すって何を?
もしかして、夫婦を?結婚生活を……ってこと?
今の今まで、彼女の中では史郎と「やり直す」という選択肢はなかった。第一自分の方が離婚を切り出した側だ。その後も実家のことや守谷のことで散々彼に迷惑を掛けておいて、今更どの面下げて「もう一度」なんて言えるだろうか。いや、そんなことを考えるだけでも烏滸がましい気がしていたというのに。
例え自分がまだ史郎のことを想っていたとしても、それは彼女の内で密かに留めておくべきであって、彼に向かって打ち明けることを許されるものではないだろう。何せ自分は彼に対してそれだけの仕打ちをしたという自覚がある。しかもその理由が彼女の一方的な思い込みで、彼には反論の機会も与えず自分の我侭を押し切ったのだ。
しかしそのことをこんな形で彼の方から言い出されたことで、正直なところ奏子はかなり困惑していた。一瞬我が耳を疑い、自分に都合の良い空耳かと思いたくなるのは当然のことだろう。

向かい合って座る二人の間にぎこちない沈黙が流れる。
言葉を失い、戸惑いの表情を浮かべる彼女に、史郎は乗り出しかけた体を一旦引いて、自分を落ち着かせるように冷めかけたコーヒーへと手を伸ばした。
「ごめん、ちょっと先走り過ぎた」
飲み干したカップを置き、ふうと大きく息を吐き出した史郎は片手で顔を擦りながら呟いた。
いつもの彼らしからぬ落ち着きのない様子に、奏子はふと疑問に思ったことを口にする。
「あの、ひとつうかがっても良いですか?」
「うん、何?」
「史郎さんは、どうしてそんなことを考えたのかな、と思って」
それを聞いた史郎は不意を突かれたように動きを止める。そしてようやく彼女に自分の気持ちがまったく伝わっていないことに気付き、思わず天を仰いだ。
この時まですっかり忘れていたのだが、奏子は以前から色恋沙汰にはおそろしく鈍い。特に異性からの好意を素直にそれに結び付けて考えることができなくて、結果として意気込む相手を空回りさせてしまう性分でもあった。
彼女にはストレートな言葉できちんと言わないと伝わらない。かつて夫婦であった期間にも何度となくそういった出来事があったことを思い出した史郎は、そのことを肝に銘じると気を取り直して再び奏子と向き合う。その間の彼女はと言えば、彼の方をじっとうかがうようにしながらも視線はあちこちとぎこちなく彷徨っている。
「……どこから話せばいいかな」
そう言って語り始めた史郎の告白は、奏子にとって俄かには信じられないものだった。


史郎が彼女と結婚した切欠は確かに見合いだった。
お互いに全く知らない相手というわけではないが、そんなに親しくしてきたという間柄でもない。ただし彼の学友の父親が経営する会社に入社した以上、社長の娘が友人の妹であることは最初から分かっていたことだ。
しかし、就職した時点では予想もしなかったことが自身に降りかかってきたのは想定外だった。というのも、社長の長男であり彼の友人でもある大貴が家業を継ぐ可能性を完全に否定したことで、後継者候補が急にいなくなってしまったのだ。
大企業ではないものの、彼の勤務する会社は少なくない従業員を抱え、そこそこの収益をあげているいわば中堅どころの企業だ。そして今までは、そんな会社にありがちな、社長の一声で経営の方向性が決まるいわゆるトップダウンをずっと堅持してきた。
そこに出てきたのがこの後継者問題だ。
奏子の父親である現社長も世襲には限界があり、時流に逆らうということには薄々気づいていたようだが、如何せん長らく続いた体制下では社内にそれに見合う人材が育っていなかった。そこで実務に向いた人間を見つくろい、末娘に婿を迎えて一気に後継者として引き上げることを考えたのだそうだ。
彼女の史郎に対する想いはその思惑に上手くはまった格好だった。
父親は息子の代わりとなる後継者を得ることができて、彼女は憧れの男性と結婚する。そして史郎は社長の娘婿としてその足場をしっかり固めることができるという、皆に益があり一見するといい事尽くめのはずだったのだ。

そのあたりのことは奏子も理解していた。といっても両親はそこまで露骨に彼女に史郎との縁談を押しつけたりはしなかった。結婚を決意したのはあくまでも自分自身で、彼となら充分一緒にやっていけると思ったから承諾したのだ。
ただ、人間の感情というものはそんなに簡単に片づけられるものではない。だから彼女にとっては恋愛要素の高い見合い結婚のつもりでも、史郎にはそこまでの思い入れはなかった、と奏子は感じていた。そのあたりの感情の微妙なズレが最終的には不幸な結果を招いたのだと彼女は考えていた。

だが、史郎が語った言葉は奏子の認識とは少し違っていた。
「僕は君に結婚を急がせたことをずっと引け目に思っていた」
学校を出てすぐに外の世界に触れることもなく家庭に入った彼女は、世の女性たちが自由を謳歌すべく与えられたはずの時間を彼によって奪われることとなった。とはいえ、あの頃の彼は奏子の夫として新たに加わった責任を全うすることが精いっぱいで、彼女をケアするというところにまで気を回す余裕がなかったのだ。
このままではいけないと思いつつ、日々の仕事に追われ彼女のことを蔑ろにした。そして彼女の方も不平不満を一切口にすることなく、甲斐甲斐しく世話をしてくれていたものだから、すっかりその環境に甘えていたのだ。
それがいかに彼女に忍耐を強いていたかに気付いたのは、奏子が家を飛び出した時だ。
『自由が欲しい』
その言葉はあまりにも衝撃的で、夫として妻を満足させていると思い込んでいた史郎の慢心を抉った。
彼女は自由ではなかったのか。自分はそんなにまで彼女を縛りつけてしまっていたのか。
それを突きつけられた彼は言葉を失った。
確かに自分が外で働いている間、奏子は家の中にじっとしていることが増えていた。彼女が外に出たがらなくなり、引き籠りがちになった時でさえ、彼は妻が家に居たいと言う言葉の裏に隠された思いに気がつけなかった。
仕事に明け暮れた彼が奏子と一緒にいる時間は徐々に少なくなり、極端に会話が減っても彼女が不平不満を言わないことに甘え、それが自分たちの夫婦の在り方だと信じて疑わなかった。そしていつの間にか笑顔が消え、常に張りつめたような雰囲気をまといだした彼女の憔悴ぶりをも見て見ぬふりをしてやり過ごしたのだ。

結局、自分では彼女を幸せにすることができないのだと思い知った。
今さら、どれだけ彼が奏子のことを愛しているかなんて口にしても彼女には白々しく聞こえるだけだと思うとそれさえもできなかった。
彼女と離れてようやくそれに気付いた彼は、奏子の希望を尊重する形で離婚に同意した。自分の手を離れ、自由を手にすることで彼女が本当に求めているものに出会えるなら、それでよいと自らを納得させて。
一度は割り切ったつもりだった。
それでも奏子の姿を見かけると心の疼きを止められなかった。どうしてあの時自分の想いをぶつけることなく物分かりの良い夫を気取ってしまったのかと随分後悔もした。
そして彼女が再婚するかもしれないと聞かされた時には遂にこの時が来たのかと思い気持ちが塞いだ。
そんな時、守谷の知人という代議士が久世の家を訪れ彼女を愚弄するようなことを言うのを聞き、頭に血が上った。それもあの男が論ったのが自分との離婚歴だったことで抑制が効かず、結果としてあちらの家に悪い印象を与えてしまったのだ。
あの代議士が口にしたことを考えれば自分にだけ非があるなどとは思わない。それでも守谷に会い謝罪したのは、今度こそ奏子の幸せを守りたい、壊したくないと思ったからだった。

「……信じられない」
話を聞き終えた奏子はただ呆然としていた。
自分がそこまで史郎に想われていたなんて、考えたこともなかった。彼にとって自分は面倒な手のかかるお荷物でしかなく、だからこそ簡単に手を離してくれたのだとばかり思い込んでいたのだ。
「でも本当だ」
史郎は真剣な顔でこちらを見つめている。
「だからもう一度、互いを見つめ直すチャンスをくれないか」
史郎の真摯な言葉に奏子の気持ちが揺れる。
まだまだ自分は絶対的な、確たる自信が持てたわけではない。でも今の自分はもう以前のように人の後ろに隠れてその場しのぎをするようなことはしない。だから今度は彼を盲信するのではなく、きちんと自分の主張を持って対等な関係を築いてみたいとも思った。

「その答えはもう少しだけ、待ってくれませんか」
彼女の答えに史郎が息を詰めた。
「あと少し、私が本当に自立して、自分に自信を持ってあなたと向き合えるようになるまで」
奏子の目は逸らされることなく、真っ直ぐに彼に向かっていた。それを見つめ返す史郎の視線もまた、彼女から離れることはなかった。
「分かった。その時を待っている」
史郎のその言葉に、しばらく見つめ合った二人はどちらからともなく微笑み合ったのだった。



それから2年余りが過ぎた。
奏子の父親は予定通り史郎に経営を譲り、権限のない会長職に退いた。
これを機に会社は偏った親族経営の体制を改め、社内はもとより外部からも経営陣の登用を始めた。
皮肉なことではあるが、その契機となったのは史郎が奏子と離婚して、親族の枠から外れたことによるものだった。

そして奏子は、今日もおばちゃんたちに揉まれつつ、奮闘している。
勉強していた資格を取り、現場でのスキルを身に着けた彼女はパートから正社員となり、今ではパートスタッフに指示を出す側に回って、新たな職場となった厨房の管理者としても多忙な日々を送っている。

その後の二人の関係は、といえば……
毎年奏子の誕生日は一緒に過ごすことに決めている。そして今年も年度末の3月31日 ― 数年前のその日は離婚の切欠ともなったいわくつきの日でもあるが ― やはり史郎は超多忙だったがそれでも何とか待ち合わせに間に合い、一緒に夕食を取ることができた。
電車を降りてから彼の住むマンションまで、彼らは並んで歩く。それはごく自然に、二人の歩調に合せたペースを作り出す。早すぎず遅すぎずのそれはまるで昔の、婚約者だった時代をやり直しているようでもあり、いまの二人の関係を確かめているようでもあった。
その先の角を曲がれば彼のマンションが見えてくる、そんな場所で突然史郎が立ち止まった。彼の手に引っ張られるように彼女の足もまた自然に止まる。
どうしたのかと訝しげに見上げる奏子の方に史郎が向き直り手を差し出した。
「誕生日、おめでとう。そしてまた来年も共にこの日を過ごせるよう願っている。だからもう一度、僕と一緒に人生を歩いてくれないか」

2年前のあの日から、ふたりは少しずつ距離を縮めてきた。最初の結婚では叶わなかった、互いを知りつつ、自分を見つめ直し、共にあることの本当の意味を探し続けていたのだ。
随分時間を掛けて回り道をしたけれど、そのお蔭でこうして彼と向き合うことができた。だからもう、その言葉に迷うことも戸惑うこともなかった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
その夜、同じ人からの時を隔てた二度目のプロポーズに、奏子は彼の手を取って微笑みながらそう答えたのだった。




≪BACK / この小説TOP へ
HOME






Photo by 7style