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   セカンド ・ マリアージュ  6


「ハンカチ持った、お財布も持った。鍵は……っと、ここにある」
その日、何度目かの持ち物チェックをした奏子は、玄関にある大型の姿見の前でくるりと一回りしてみる。
地味すぎないが派手ではない。
彼女が選んだのは、そこらにちょっと買い物に行くような、そんなレベルの格好だった。
「あんまりふわふわしたのは好まれないかもよ。何せ仕事に行くんだから」
今朝、着て行く予定の服を見せた奏子に、彩乃はロングのスカートよりパンツが無難だと指摘した。
「まぁ、一応挨拶周りもあるかもしれないから、さすがにジーンズじゃないのが良いと思う」
彼女にそう言われて、慌ててクローゼットの中から探し出したのがこれ、結婚前にチュニックに合わせて買ったカーキー色のカプリパンツだ。野外の催しやショッピングの際に何度か着たものの、史郎があまり女性のパンツスタイルを好まなかったこともあってそのままタンスのこやしになってしまい、すっかり忘れていたものだ。
「うん、これなら大丈夫。自転車にも乗りやすいしね」
奏子はもう一度鏡をのぞきこんで撥ねた髪の毛を撫で付けると、服装に合わせて選んだフラットシューズを履いて玄関を出る。
時刻は午後3時半を少し過ぎたところで、今から行けば担当者から指定された時間にちょうど良い頃合いになりそうだ。
5時半からの寮の夕食のための仕込み作業はすでに3時から始まっているが、このくらいの時間でないと同僚になる人たち全員が揃わないらしい。

自転車で10分もかからずに工場にたどり着くと、昨日面接をしてくれた守谷が事務棟の入口にところに立っているのが見えた。
「あ、すみません。遅くなりました」
慌てて自転車を引いて駆け寄った奏子に、守谷はにっこり笑って首を振った。
「いえいえ、まだ早いくらいですよ。僕もちょうど下に用事があったので早めに下りてきただけですから。では、一緒に行きましょう」
そう言って彼はまず最初に寮の側にある自転車置き場へと案内してくれる。
「冬場は特に夜遅くなると暗くなるのが早いので、女性はできるだけこのあたりの建物が近くて人目がある、明るい場所を選んでとめて下さいね」
寮にいる人たちの主な足になっているらしい自転車は、屋根付きの駐輪場に乱雑に並んでとめられている。ざっと見て20台以上はあるだろう。
建物の反対側に狭い駐車場も見受けられるが、そちらは7、8台も停めれば一杯な感じだ。
その側を抜けるとすぐに食堂や厨房があるコンクリート造りの平屋の建物があり、守谷は彼女をその裏口へと案内した。
「守谷ですけど、新人さんをお連れしました」
インターホン越しに『どうぞ』と言われ、彼と奏子は扉を開けて中へと入って行く。彼女が足を踏み入れたのは業者の搬入口も兼ねた職員用の出入り口だったようで、壁際の床にはダンボール箱に入った野菜や乾物などが幾つか置かれたままになっていた。
「ちょっとバタバタしちゃって、すみませんね」
中から三角巾を外しながら出てきたのは、短めなパーマの髪を青っぽくお洒落に染めた、年配の女性だった。
小柄な彼女に合せるように少し腰をかがめた守谷は、自分の後ろに立っていた奏子をその女性の前に押し出した。
「こちらが今回勤められることになった久世さんです。久世さん、彼女がここで一番の古株で主の中本さん」
「あ、お、お願いします」
「こちらこそ」
ぺこりと頭を下げた奏子に、紹介された女性も同じように頭を下げる。
「それにしても、守谷さん、『主』はちょっとあんまりじゃない?まるで私が牢名主みたいじゃないのよ」
「え?いけませんか。中本さんにぴったりだと思うんですけど」
「……あんた、何気に酷いこと言うわね」
中本はそう言いながら守谷の背中をバシッと叩く。
「痛っ」
「そんなもん、私の心の痛みに比べたら、蚊に刺されたようなものでしょう」
「いえ、蚊に刺されると痛くなくて痒い……」
「ん?何か言った?」
「いえ、何も」
二人の絶妙な掛け合いはまるで漫才のようだ。奏子がそう言うと、中本は「夫婦?」と言い、守谷が「親子?」とまったくかみ合わない反応をする。
「誰と誰が親子なのよぅ」
と再度びしっと背中を叩かれた守谷が呻くのを聞きながら、奏子は思わず笑ってしまった。
「まぁこんな風だけどよろしくね。もう聞いているかもしれないけど、前にいた子が急に辞めちゃってね。もう毎日てんてこ舞いなのよ」
「とりあえず、明日の朝は飛ばして午後から入ってもらうことにしますから。その方がこちらにも良いですよね」
「そうね。朝は準備がギリギリになっちゃうことが多いから、あんまりいろいろ細かいことが教えられないからねぇ」
中本も守谷に同意するように頷く。
「それじゃ、久世さん、明日の午後、3時前にこちらにきて下さい。服装は汚れてもよい格好で。エプロンとフードキャップはこちらから支給しますが、靴は動きやすいものを持参してください」
それで構いませんか?と守谷がお伺いを立てると中本はにっこり笑って頷く。
「あと、タオルと着替えはあった方がいいかもしれないわ。ここは水を使うしその上ガスで煮炊きするから湿気が多くて、この時期でも結構汗をかくのよ」
奏子は言われたことを聞き漏らすまいと真剣な顔でメモをとる。
「皆への紹介は明日、時間に余裕がある時にさせてもらうわね。今はちょっとした修羅場だから」
中本は笑いながら肩を竦めると、後は好きに見学して行ってと言い残して厨房へと戻って行く。その間にも中からはがちゃがちゃと食器のこすれる音や何かが床に落ちたような金属音、それに負けないくらい大きな声で指示が飛ぶのが聞こえてきた。
厨房の仕切りの隙間からこっそりとのぞいた向こう側には巨大な鍋や柄の長いおたまなど、初めて実物を見た物に加えて3、4人の人がまるで独楽鼠のようにくるくると動き回っているのが分かる。
「うわ、大きなお鍋。魔女が毒薬を作る時の釜みたい」
思わず漏らした驚愕の呟きに、側にいた守谷がくすりと笑ったのを聞いた奏子は、慌ててその理由を捲し立てる。
「私、学生の時に給食って経験がないんです。テレビなんかでは見たことがありますけど実物でなおかつそれが使われているのを見たのは初めてです」
「小学校も?」
「はい。幼稚園からずっとお弁当でした」
「ああ、そうか。あそこは……そうだな」
守谷は奏子の学歴を思い出したのか、納得したように頷いた。
彼女が通った女子校は、いわば良妻賢母教育で名が知れた学校だ。その観点からすれば、お弁当持参は当たり前で、高校までは学食さえも設置されていない。幼稚園から小学生くらいまでは保護者が、それ以上になれば、たとえ親にその時間がなくても自分で作っていくくらいの技量が求められる。
もちろん、人によっては家の専属の料理人が作った弁当を毎日持ってくる者もいたが、奏子の友人たちは概ね親が作ってくれたものを持参していた。
奏子にとっては当たり前だったこの主義と慣習は途中から入って来た彩乃には奇異なものに映ったようで、彼女は学校を辞めるまでずっと「信じられない」と言い続けていた。お昼にそこらのスーパーで売っているサンドイッチや菓子パンと野菜ジュースを持参していたのは、学内広しといえども彼女くらいのものだろう。

「それでは、久世さん、事務所の方で契約書類をお渡しするから、一緒に来てもらってもいいですか?」

「はい」
守谷に促されてその場を立ち去ろうとした奏子の耳に、厨房の方から悲鳴が聞こえてきた。
「ちょっと、だれか、タオル、もっとタオルを持って来て」
バタバタと足音が聞こえ、それに続いてドアが二度三度、バタンと締まる音がする。
「何かあったのかな」
ドアのところにいた守谷はすぐに踵を返すと、厨房の中へと入って行く。奏子も慌てて彼の後を追うと、そこには左手に当てたタオルを真っ赤な血でに染めた女性の姿があったのだった。




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