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   セカンド ・ マリアージュ  59


史郎の都合が良い日を聞き出した奏子は、ある場所で彼が来るのを待っていた。それは父親の会社からほど近いところにあるカフェで、二人は結婚する前にも何度かここで待ち合わせをしたことがあった。
少し年季の入った店構えに落ち着いた装飾の店内。BGMで流れる曲はよく耳にするスタンダードなジャズだが、そちらに詳しくない奏子には誰の演奏かまでは分からない。
ここってこんなお店だったんだぁ。
久々に訪れた店の中を見回して、今さらながらそんなことに気付いた自分がおかしくなる。
思い返せばあの時の彼女はとにかく史郎のことしか目に入らなくて、周りの雰囲気を楽しむ余裕すらなかった。
史郎のことが好きで好きでたまらなくて、彼のことしか見えていなかったあの頃。離婚した当時はそんな自分を思い出す度に愚かだったと恥じた時期もあったけれど、今思えばそれは決して悪いことではなかったのだ。
仮にもしもあのまま周囲の雑音に惑わされることなく、純粋な気持ちで彼を見つめ続けることができていたならば、何も疑うことなく平穏な人生を送れたかもしれない。しかしながら結局のところ、自分で作り上げた幸せの虚像を壊してしまったのも自分自身だった。
人間は欲深い。
それは傍から見れば何の悩みもなく、のほほんと生きているように思われがちだった奏子も例外ではない。だからこそ彼が与えようとしたもの以上を求めていることに気付いてしまい、そのジレンマで自らを追い詰めた。
けれど当時は理解できなかったその失敗を認識したからといって、以前と同じ環境に戻ってあの頃のように暮らしたいかと問われれば、今の自分は即座に「ノー」と答えるだろう。
彼と自分は別々の人間だ。それゆえにある程度互いの考えを擦り合わせることはできても、完全に同化させることは不可能だ。もしもそれを圧して自分を抑えこみ無理に彼に合せようとすれば、再び彼女の感情は歪なゆがみを生じさせるに違いない。
盲信や隷属は必ずしも愛情に結びつくとは限らない。
そう答えを導き出せるようになった過程こそが彼女が乗り越えた日々の証だ。
彼と離婚してからの2年余りはあっという間に過ぎていった。
25歳になった奏子には、昔のようにお嬢様然とした雰囲気は感じられなくなり、その分年を重ねた逞しさのようなものが備わってきつつある。
彼女は持っていたカップをソーサーの上に置き、以前より指の節が太くなった自分の手をじっと見つめた。
仕事で荒れたこの手には以前のように華奢なデザインの指輪やブレスレットは似合わなくなってしまった。けれど日々の糧を稼ぎ出すことを知ったこの手は、今の彼女の自信を支えくれている。
ぼんやりとそんなことを考えていた奏子耳に、店の扉についたドアベルの音が聞こえてきた。
入口に目を遣ると、ドアの向こうから姿を現したのは史郎だった。
仕事帰りの彼のスーツ姿はやはり人目を引く。そのせいで入口近くの席に座っていた女性たちもチラチラとそちらを伺っているのがわかった。だが当の本人はそれらに気付くこともなく、立ち止まって辺りをぐるりと見回し、奥の方のテーブルにいた奏子を見つけて軽く手を上げるとこちらに向かって歩いて来た。
その一連の所作に、一瞬婚約者時代の自分たちに戻ったような錯覚を覚えた奏子は慌てて席を立って彼を迎えた。

「お忙しいのに、お呼び立てしてしまって申し訳ありません」
向かい合せに座り、コーヒーを頼んだ史郎に奏子が言う。
聞きようによっては他人行儀な挨拶だが、元夫婦とはいえ今は他人だ。このくらいきっちりとしておかないと、と頭を下げる奏子に、彼は苦笑いを浮かべる。
「いや、そんな堅苦しくしなくてもいいよ」
そしてコーヒーを運んできたウエイトレスが立ち去るのを待ってから、彼はまだ少し躊躇っている奏子に水を向けた。
「それで、話って?」
心なしか彼の声も固く聞こえる。それに気圧されそうになりながらも、奏子は視線を落とすことなく真っ直ぐに彼を見つめた。
「あの、最初にお知らせしておかなければならないことがあるんです」
彼女はそう言うと、自分を落ち着かせるようにコップの水を含んで唇を湿らせる。
「守谷さんのことなんですが……あのお話はお断りしました」
「……断った?」
その驚いた様子に、奏子は口を引き結んだままで大きく頷いた。
「はい。正式にお断りしました」
奏子が守谷本人に伝えただけでなく、改めて久世家として断りを真田家の方に入れてもらった。
その際に、このことを史郎にも伝えようとする両親を奏子は「自分の口から話すから」と言って押し止めたのだ。
どうやら父も母も、彼が守谷に直接会いに行ったことは知らない様子だ。ただ、史郎が今も密かに娘のことを案じてくれているのには気づいていたらしく、彼にもきちんとこのことを知らせておいたほうが良いと釘を刺されていた。
「史郎さんが守谷さんのところに行って下さったことはうかがっています。ご心配をお掛けして申し訳ありません。そして、お気遣い、本当にありがとうございました」
そう言って頭を下げる奏子を前に、史郎は眉間に皺を寄せている。
「今日お会いしたのは、どうしても直接会ってお礼を言いたかったから……ご迷惑でしたか?」
上目づかいにお伺いを立てる奏子に史郎は考え込んだ表情のまま首を振った。
「いや、そんなことはないが……もし差し支えなければ、その、理由を教えてもらえないだろうか」
「お断りした理由ですか?」
なぜそんなことを、と問いたげに表情を曇らせる奏子を、史郎は慌てて宥める。
「ああ、いや、言いたくなければ言わなくていい。けれどもしも僕が独断でしたことが原因なら君に謝らなくてはいけないから」
彼の独断とは、守谷に会いに行ったことを指すのだろう。しかしそれは今回のこととは全く、とまでは言わないがほとんど関係がなかった。むしろ、彼に余計な気遣いを指せてしまったことを申し訳なく思うくらいだ。
「それは関係ありません」
「だったらどうして……」
ご縁がなかったから、と言いかけて止めた奏子だが、その後の言葉が出てこない。というのも彼に対して果たしてどこまで本音を明かしても良いものか迷っていた。
ここまでしてもらった相手に上っ面だけの答えをするのは不誠実な気がする。かといってその起因が捨てきれぬ未練であるなどと仄めかせば、察しの良い史郎にまた要らぬ気遣いをさせてしまいかねなかった。
だが、そんな彼女の躊躇をよそに、彼の口から出てきた言葉は意外なものだった。
「そう、断ったんだね。それならばもしかして、僕は……まだ希望を持っていても良いんだろうか」
「希望?」
突然彼が何を言い出したのか理解できなくて、奏子は小さく首を傾げる。
一体何に?と問い返すまでもなく史郎は彼女を覗き込むように見つめながら頷いた。
「もう一度僕にもチャンスが……最初から君とやり直せるチャンスがもらえるかもしれないと、期待してしまうよ」




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