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   セカンド ・ マリアージュ  58


「いい?早いとこ片づけないと、だんだんやり辛くなるわよ」
「うん。そうだけど今すぐにはちょっと……」
煮え切らない奏子の態度に、彩乃はちらりとこちらに目をやりながらぎゅっと片側の唇を上げる。それを見た奏子は無意識に視線を逸らした。
「ほら、またそうやって嫌なことを先送りしようとしてる。それじゃダメだって自覚はある?」
この顔をした時の彼女は全くもって容赦がないことは、長い付き合いで嫌というほど知っている。
「そ、それは分かってはいるんだけど」
口ごもる奏子に、彩乃はヤレヤレといった顔をする。
「あったことを素直に言えばいいのよ。とりあえずご両親にはそれで問題ないでしょう?」
彩乃はそう言って畳み掛けてくる。もちろん彼女も勘づいているのだ。本当は何が原因で奏子が二の足を踏んでいるのかということくらいは。
「でも……」
「奏子が悩んでいるのは、実家に行けばもれなく彼が付いてくるかも?ってとこでしょう?」
「……うん」
奏子自身も、少しでも早く両親にきちんと説明して安心させたいという気持ちはある。それでもぐずぐずと煮え切らない態度を崩せないのは、史郎と向き合う決心ができないからなのだ。
なぜ彼があんなことをしたのか。
はっきり言って奏子にはよく分からない。
守谷の言葉を額面通りに受け取れば、彼女のこれからのことを心配して、ということになるのだろうが、他人の彼がそこまで自分を気遣ってくれる理由が理解できないのである。
否、思いつく理由がまったくないこともないのだ。
まさか、史郎さんが私の事を?
しかしそれは自分の中の認識ではありえない部類に入っており、すぐさまこれを否定したことで、一瞬頭の中を過った考えはたちまちのうちに消え失せる。奏子が即座にそうした根拠は、長年彼女の内で凝り固まった自己評価の低さだ。
婚約時代をはじめとして結婚してからも彼女の中では史郎の存在は唯一無二のものとして君臨していた。しかし彼からみれば自分を側に置く理由にさしたるものはないはずだ。
平凡を絵にかいたような自分はどれだけ頑張っても彼に相応しい女性にはなれない。けれど久世の娘婿であるということが会社を継ぐにあたっての条件の一つとして受け止められていた以上、彼の方から奏子を切り離すことは難しかったに違いない。
だからあの頃は彼女なりに考えて、彼の邪魔にならないように心掛けて接していた。できるだけ自分が彼の目に留まらないように気を使い、息を潜めるようにして暮らしていたのだ。
そう、まったく外に目を向けることなく、我侭も言わず、彼のすることに異を唱えず、ただただ従順なだけの妻を演じて。
そうして自分を追い込んだ挙句に煮詰まり、彼の側にいることに疲れた彼女は、勝手な理由をつけて離婚を切り出した。
今思えば、あの誕生日の賭けは彼女の思い上がりの最たるものだ。わざと自らの存在感を消すように仕向けておきながら誕生日をスルーされたことに耐えられなかったなんて、身勝手も甚だしい。もし仮に、本当に彼に気付いて欲しいと思っていたのなら、どうしてそれを直接彼に伝えなかったのか。
そんな簡単なことにさえ気付けなかった過去の自分が情けなくて仕方がなかった。


彩乃に急かされたものの、結局実家を訪れたのはそれから数日後のことだった。
奏子自身、少しでも早く周囲に説明をしなければならないことは頭では分かっていたが、それでもぐずぐずと二の足を踏んでしまったのには訳がある。それは言うまでもなく、これから史郎にどう向き合えばよいのかを決めかねていたからだ。
連絡をすると予想通り父は在宅で、いつでも来てよいとの返事が返ってきた。
父親は今現在もまだ社長という肩書を持ったままだが、実際はすでに第一線から退いていて週に2、3日しか会社に出勤していない。その他の日はといえば仕事は主に家で書類に目を通す程度に留めていて、既に実質的に経営からは手を引いていた。
後継者として父親の下で経営のノウハウと実務を学んでいた史郎は、当面は父親と会社の重役たちの連絡役に当たることになるらしい。そのせいもあって以前にも増して彼が奏子の実家に顔を出す機会が多くなったことは知っていて、行けば彼と遭遇する可能性が高いことは承知していた。
前より少しはましになったとはいえ、困ったことや嫌なことからの逃げ癖が未だ克服しきれない奏子にとって、それはあまり歓迎できることではない。せめて自分がどうしたいかをはっきり決めておかないと、いざ彼の前に出た時にきちんとした対応ができるかどうかは自分でも怪しい。というのは実は単なる言い訳で、できれば困難なことは先延ばしにしたいと現実逃避に走りかけていたのだ。

そんな彼女の性格を良く知る親友に首根っこを掴まれた上にお尻を叩かれ、不承不承実家に向かった奏子は、迎えてくれた両親に、最終的にこの話を断ったことを伝えた。すると父は「お前がそう決めたんだったら、もう何も言うことはないよ」と言ってくれたし、側にいた母親もやっと安心した様子だった。それを見た奏子は、今更ながら両親にもっと早くきちんと話をするべきだったと反省する。
思えば、自分と守谷のことであれこれ引っ掻き回してしまい、両親にも散々迷惑を掛けたのだ。守谷の本意ではなかったとはいえ、他人にあれこれ言われ、家業云々ということまで引っ張り出された両親はさぞかし気を揉んだはずだ。
それでも、最後まであくまでも奏子の気持ちを尊重する、という態度を貫いてくれた父と母にはいくら感謝してもしきれない。
ただ守谷とのやり取りの中で、もしかしたら娘が再び良縁に恵まれるのではないかという両親の淡い期待をも感じていただけに、それを見事に裏切ってしまったことに対しては申し訳なく思う。
不肖の娘ですみません。
末っ子の奏子に甘い(と兄姉たちが揃って口にする)両親の存在をありがたいと思いつつも、いつもその期待に添えない自分の不甲斐なさを心の中で詫びた奏子だった。


こうして心に引っかかっていた問題が一つ片付くと、残る気がかりはやはり史郎のことだ。
その日、幸か不幸か彼が奏子の前に姿を見せることはなく、結局彼女は史郎と守谷のやりとりの件を直接本人に確かめることができなかった。
最初は実家で偶然会うのは気まずいと思っていたが、いざ会えないとなるとわざわざ連絡を取らなければならないことに気付いた奏子の気分はどんよりと沈んだ。
今更どう理由をつけて、彼に会ってほしいなんて言えるだろうか。それも、確認したい内容が内容なだけに、切欠を掴みづらいことこの上なかった。
両親には彼と守谷が直接会っていたことなど言わない方が良いだろうと思ったので、何も話していないから安易に繋ぎを取ってもらうこともできない。携帯の番号は、以前のままであれば知らないこともないのだけれど、それで済ませずに直接会ってしっかり話をして来いと彩乃に発破を掛けられた奏子は、手にしたスマホを見ながら途方に暮れた。
「このままうやむやに……なんてことはダメだろうなぁ」
思わず口から零れた言葉を耳で拾った彩乃に無言で手の中のスマホをもぎ取られる。
「そんなに簡単に、済ませて良い話じゃないでしょう?」
そしてその後、今すぐにここで会う約束を取り付けろと本気で睨まれた奏子は、やっと返してもらったスマホで渋々彼に電話をした。
『はい、寺坂です』
平坦で、それでいて少し固い彼の声が聞こえてくる。
「あ、あの……」
『……奏子さん?』
彼の疑問符を伴った調子に、そういえば自分が離婚してから携帯の番号を変えたのだということに思い当たった。もちろん、それを彼に知らせているはずもなく、見知らぬ番号からの電話を無視しないでくれた史郎に感謝だ。
「あ、そ、そうです。久世です」
予想外に早く出た彼の声を聞いた途端、奏子は自分が何を言おうとしていたのか分からなくなった。
「あ、あ、あのですね」
ほら、ちゃんと約束を取り付けて、と目の前の彩乃が声に出さず口だけ動かして彼女を促す。『何か、ありましたか?』
史郎の訝しげな声に、奏子はぶるぶると首を振る。もちろん、電話の相手にはそれが見えるはずもないのだけれど。
「あの、わ、私、お願いがあって」
『僕に?』
言外に疑問を滲ませる彼に、急激になけなしの勇気が萎みそうになったが、それでも彼女は意を決してスマホに向かって一気に捲し立てた。
「お、お話したいことがあるので、会ってくださいませんか?」
『……いいですよ』
一瞬の沈黙の後、彼が存外あっさりとそれを受け入れてくれたことに少し驚きを感じながらも、奏子はほっと胸を撫で下ろしたのだった。




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