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   セカンド ・ マリアージュ  56


「史郎さんと……ですか?」
二人が、どうして?といわんばかりの奏子の訝しげな様子を見ながら、彼は小さく頷いた。
「ああ。正確には、彼がこちらに会いに来たというのが正しいかな」
ますますよく分からない、と首を傾げる彼女に守谷はふっと笑いを漏らした。
久世家でのあの騒動の後、突然住まいを訪ねて来た奏子の元夫の姿に、最初は何事かと警戒していた守谷だったが、意外にも史郎は最初からかなりの低姿勢であったという。
「玄関で、彼にいきなり頭を下げられて、驚いたのなんのって」
代議士の不作法のいきさつをつぶさに聞かされていた守谷は、偶然その場に居合わせたという史郎に文句の一つもぶつけられるかと身構えていたが、彼の様子にすっかり毒気を抜かれた、と複雑な顔をする。
そして史郎は何を思ったのか、ひとしきり丁寧な謝罪の言葉を述べた後、固い表情でこう言ったというのだ。
『これからもどうか、奏子さんのことをお願いします』
それを聞いて、守谷は、咄嗟に「はぁ」という間抜けな返事しかできなかった。というより、好意を抱いている女性の、元の夫に「彼女を頼む」と言われてどう答えたものかと本気で迷った、ということのようだ。
その時のことを思い出したのか、守谷は目を閉じるとふっと唇を歪めた。
「あの件で、もしもこの話が拗れたら、と思うと気が気じゃなかったってさ。彼、君のことが心配で、気になって仕方がないみたいだった」
それを聞いた奏子は、無性に情けなくなりがっくり項垂れた。
別れた夫などという微妙な関係であるにもかかわらず、史郎にとっての自分は未だに心配のタネになるほど頼りなく思われているなんて、恥ずかしいにも程がある。これではまるでいつまでも自立できない妹を心配する兄のようだ。いや、実兄の大貴は自分に対してそこまで過保護ではないから、それ以上か。
「か、彼は前からそうなんです。私をまるで妹みたいに……」
まるで妹みたいに。
自分で言った言葉にチクリと胸が痛む。
大人な兄と大人になりきれない妹のよう。それは結婚しても夫婦として対等な関係を構築できなかった二人の関係そのものだ。史郎に置いて行かれまいと自分なりに必死に背伸びしてはみたけれど、結局それに疲れて立ち止まり、前を行く背中を追うことを放棄してしまった自分は、彼の中では守らなくてはならない小さな女の子のまま成長していないのだろうか。
そんな風にぼんやり考えていた奏子に、守谷はちょっと呆れたような顔をする。
「カナちゃん、さぁ……」
久しぶりにくだけた様子でそう呼ばれて、奏子ははっと彼を見た。
「教えるのは本っ当に癪なんだけど」と前置きして守谷は、悪戯っぽい目で彼女を見た。
「あれを妹を見る兄の目、っていうのはちょっと無理があると思うよ」
「でも彼がそんなことを言うのは、きっと私が不甲斐ないからで……」
彼女の言葉に、守谷がふふん、と鼻を鳴らす。
「まぁ、確かに君が男の庇護欲を刺激するっていうのは本当なんだろうな。かくいう僕もそうだから。でも、言っておくけど彼のそれは妹に向けられる類のものじゃない」
そう聞いても、やはり彼女にの言葉を上手く咀嚼することができない。頭の上に大きな「?」マークを浮かべる奏子に、彼も報われないな、と守谷が苦笑する。
「あれは男が異性に、それも自分が好意を持っている女に抱く感情だよ。そして君も、彼に対して特別な感情を持ち続けている、そうだろう?」
「で、でも、そんな未練がましいこと、私は……」
自分の気持ちを見透かされて、奏子は口ごもった。
ずっと彼に憧れていた自分と違って、最初から結婚ありきの立場に置かれた史郎にそんな深い情があるはずもない。それに、とっくの昔に他人になっている彼に、今更そんなことを言っても嫌われるだけだと奏子は思う。
そんな彼女を見て、守谷は深いため息を落とした。そして彼は言ったのだ。
「あのね、カナちゃん。男の未練と妹への気遣いを同義だなんて、思ってはいけないよ」と。
男は本気で想う相手をそんなに簡単に諦めたりはできない。女性のように、あからさまにそれだけを見て視野を狭くしてしまうようなことはないとしても、常にレーダーを張り巡らせて気になる相手のことを目の端に留めているものだ。その点では切り替えの早い女よりはるかに性質が悪いのだ。
かく言う自分もまだ君には未練タラタラだけど、と自嘲気味に笑う守谷に、奏子は訝しげな目を向ける。
「あ、信用していないな」
「そ、そういうわけじゃないですけど」
と言いながら、奏子は彼から目を背ける。
そもそも、史郎とのことは最初から彼女の一方通行な恋慕から始まったのだ。それでも良いと、結婚してからゆっくり互いの関係を育てていくことができれば、いずれ彼も奏子の背負うものだけでなく彼女自身を見てくれるだろう。
そう思って始めた結婚生活だったから、彼がそんな気持ちを持っているなどと考えたこともなかった。
そう言うと、守谷はガリガリと頭を掻きながら彼女に聞き取れないくらいぼそぼそと「ここまでくると、あいつも報われないを通り越して不憫ささえ感じるな」と呟く。
せっかく手に入れた想い人を彼女の幸せのために諦め、他の男に託そうとする男と、これほど強く想われているにもかかわらず、片想いと決めこんで敢えて現実を拗らせる女。
彼らはなんて不器用な人たちなのだろうと、守谷は本心から呆れた。
まぁよくよく考えてみれば、奏子の鈍感さもさることながら、好きな女のためとはいえ自分の後釜に座ろうかという男にわざわざ頭を下げに来る元夫のお人よし加減も相当なものだ。

その当事者の片割れはといえば、まだ彼の言葉を受け入れられず目の前で何事かを考えあぐねている。
やれやれ、結局自分は損な役回りになるんだよな。
守谷は奏子に気付かれないように小さく肩を竦めた。
「まぁいいさ、君が信じなくても。むしろ僕にとってはその方はいいくらいだから」
まだ諦めた訳ではない。
「まだ可能性はゼロではないだろう?」
守谷はわざと彼女を慌てさせるような言い回しをする。これくらいやっても罰は当たらないだろうと心の中で思いながら。
それを聞いた奏子は彼の予測通り、その想いに応えられないことへの罪悪感で身を縮める。
守谷も本当は限りなくゼロに近いものだと彼にも分かっているのだ。それなのに意地悪く言い募る守谷に、奏子は精一杯の言葉で返す。
「ダメです」
「うわ、即答で拒否?」
わざとらしく傷ついた顔をした彼を見て、奏子は慌てて言い募る。
「うっ、そ、それは、そんなことをしていては、守谷さんの時間を無駄にしてしまうから……」
だから、自分なんかよりもっと素敵な人を見つけて欲しい。
その思いに気付いているくせに、守谷は素直には頷かない。
そして去り際にそっと彼女に寄りかかり、耳元で低く囁いた。
「気が変わったらいつでも連絡して」
近すぎる彼の気配にどぎまぎする奏子に、守谷はにやりと笑って見せる。
「結構諦めが悪いんだ、僕」
そんな彼につられてつい奏子も頬を緩める。
「それじゃぁ」
「はい、守谷さんもお元気で」
まるで今生の別れみたいだなと言いながら、彼もまた「君も元気で」と応える。そして最後の柔らかな抱擁の余韻を残しつつ、彼は静かに背を向けた。
その後ろ姿を見送りながら、奏子は深く首を垂れる。
「今までありがとうございました」
きっともう、彼には聞こえないだろうけれど、それでも奏子は消えゆく後ろ姿に最後の感謝の言葉を送ったのだった。




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