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   セカンド ・ マリアージュ  52


誰一人、咄嗟に彼を止めることはできなかった。
居合わせた父は立ち上がるのが精一杯だったし、騒ぎを聞きつけ部屋に飛び込んできた母もドアの側で掴み合う男たちの姿にその場に立ち竦んでしまう。
奏子はといえば、目の前の出来事に一瞬体が硬直するのを感じたが代議士の呻き声にはっと我にかえった。そして次の瞬間、向う見ずにも彼女は二人が揉み合う中へと飛び込んで行ったのだ。

「史郎さん、止めてっ」
奏子は相手のスーツの襟を掴んでいる史郎をそこから引き剥がそうとするが、女の力では男の本気に敵うはずもなく、簡単に横に弾き出されてしまう。そこで今度は史郎の背後から彼の背に飛びかかり、自分の全体重を喉元に回した腕に乗せてながら締め上げて、後ろに引き倒そうとする。こんなこと、一年少し前の奏子なら考えもつかなかっただろうが、何せ今の彼女は重さが十キロ以上もある味噌汁の鍋をコンロから配膳台まで軽々と運ぶことができるようになっていたのだ。
その筋肉のついた二の腕は、辛口の彩乃をしても「下手な筋トレよりも効果がありそうだ」と認めさせたほどで、買い物に行っても重量のある米袋をひょいと持ち上げて片手でレジまで抱えていくのがまったく苦にならないのだから恐ろしい。
それはさておき、いくら小柄で細身とはいえ見た目以上に力がある奏子に首を取られ、ぎゅうぎゅうと締めつけられた史郎はたまらず苦しそうに呻くと両手で相手を突きとばし、背後の奏子を巻き添えにしながら二、三歩後ろによろめいて尻餅をつく。
それでやっと体が自由になった代議士は、ふらふらしつつも転倒を免れると体勢を立て直し、座り込んだ二人を見下ろす。そして吐き捨てるように更なる悪態をついた。
「ふん、出戻りを出戻りと言って何が悪い?傷物であることに間違いはないだろうに」
「なんだと!?」
それを聞いた史郎は怒りのあまり目を剥き、再び立ち向かっていこうとする。
「史郎さん、落ち着いて」
「奏子、放せ」
無意識に以前のように彼女の名を呼び捨てていることにも気付かず、彼は未だ背中にしがみついている奏子を振り払おうともがいたが、強情にへばりついた体はなかなか離れない。そんな彼女に手を焼きつつ、史郎は目の前に突っ立っている代議士を下からねめつけた。
「放してくれ。こんな奴に好き放題言われて黙っていられるか」
「ダメよ、史郎さん、こんな挑発に乗せられちゃダメ」
「けど、こいつは君のことを……」
「気にしないから、もう放っておきましょう」
「しかし……」
一方の当事者を差し置いて尻餅をついた二人が床の上で揉め始めた間に、ようやくショック状態から抜け出したらしい代議士はふらつきながら歩きだす。そしてドアのところに立ち尽くしていた母親をちらりと一瞥すると、室内の三人をぎろりと睨み付けた。
「今日のことは真田家にはしっかり報告させてもらうから、そのつもりで」
そう捨て台詞を残すと、彼は乱れたスーツを直す仕草をしながら廊下に出て行った。そして誰ひとり見送りに出なかった玄関のドアが乱暴に閉まる音が聞こえると、両親と奏子はふぅと息を吐き出しながら肩の力を抜いた。

「まったく、お前は。儂は肝が冷えたぞ、奏子」
母親に宥めるように寄り添われた父は、ソファーにどさりと腰を落としてやれやれと顔を擦っている。
「まさか、男二人が揉めてるところに自分から飛び込んでくとは思わなかった。それも、史郎君に掛けた技、ありゃぁプロレス技か」
まさか父親もおっとりした末娘がそんな行動に走るとは思っていなかったのか、随分驚いたような口ぶりだが、その顔はどこか楽しげだ。
「しかし、あとで妙な言いがかりをつけられると厄介だな」
「奏子さん、社長も、すみません。自分が軽率でした」
やっと拘束から抜け出した史郎は起き上がると奏子の手を引いて彼女も立ち上がらせる。そして二人に向かって深々と頭を下げた。
「まぁ、最初にかかって行ったことには非があるが、それ以外に君に謝罪される理由はないと思うが。むしろ親としては娘を庇ってくれたことに感謝しないとな」
父親はそう言って史郎の顔を上げさせる。
「しかしあの代議士、一体ウチに何をしに来たのかまったく分からん。あれでは子供の使いの方がまだマシだぞ」
「あの人、自分がセクハラ発言をしたって自覚がないのかしら。それでなくとも今、公職にある人の不用意な一言がやり玉に挙げられることが多いのに。他人に聞かれなきゃ何でもアリみたいなのって何だかねぇ」
心底嫌そうな母親の言葉に、父親も同調する。
「しかし、せっかく奏子さんにあったご縁がこれで壊れたら……」
史郎の言葉に奏子の肩がびくりと震える。
元妻の再婚話に巻き込まれるなんて、彼には迷惑なだけだろう。頭の中ではそう理解しつつも史郎がそれを容認する発言を聞くことが、どうしてこんなにも辛いのだろう。困ったことに、彼女は守谷との話が壊れる心配よりもそれを史郎に気遣われることの方が何倍も苦しく感じてしまう。
戸籍上はとっくに他人になっていながら、彼から他の男性とのことを肯定的に言われると、何だか自分が見放されたような気持ちになるのは単なる我侭で、身勝手でしかないのに。

そんな彼女の物思いをよそに、父親はもう頭の中で後始末の段取りをしているらしい。
「ま、これ以上は相手の出方しだいだな。史郎君も、何もないとは思うが、もし何か言われたらその時には上手く対処してくれ。それ以上、君が気に病む必要はない。奏子も、なんでこうなったのか、この先も付き合いを続けるのかも含めて、早いうちにちゃんと守谷君と話をしておきなさい」
「……はい」
奏子はそう返事をすると小さく頷いた。
そう、今は史郎に対する己の感傷にかかずらっている暇はない。自分のせいで家族や史郎までもごたごたに巻き込み、迷惑を掛けてしまったことをしっかり反省して、もう二度とこんなことにならないようにしなければいけないのだと自分を戒めた。

心に引っかかっていることを解き明かすのはその後だ。
その時奏子はそれが問題の根本的な解決にならないことを自覚しながら、自分の本当の気持ちに正面から向き合うのを先送りすることを選んでしまったのだった。




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