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   セカンド ・ マリアージュ  46


「カナちゃん、ここの分、皮をむいてカットして。大きさはダイスくらいで」
「ボウル一杯分でいいですか?」
「あ、箱の中にある分全部。足りなかったら倉庫から出してきて」
「はい、分かりました」
「こっちの鍋に火を入れているから、焦げ付かないように通りがかった人は時々混ぜていって」
「了解。あ、火は弱めでね」

夕食の準備をしている厨房の忙しさは、相変わらず戦場さながらだ。それでも奏子が一人前に仕事をこなせるようになったことと、夕方だけ出勤してくれるパートの調理員が増えたことで以前よりは幾分余裕ができてきたように思える。
古参の従業員たちと同等の仕事を与えられるようになった奏子に、つい先日、会社からある提案があった。それは彼女をパートから契約社員に、雇用の形態を変更したいという申し出だった。
この厨房を取り仕切る会社の契約社員は基本的に一年ずつ雇用契約を更新していくシステムになっていて、もう十五年以上もここにいるという最古参の中本はそのうちの一人だ。ただし他にもさまざまな事情からパートの身分の方がよいという理由でそうなっている人もいて、割合と個人の都合に融通が利く。結果として、勤続年数の長いベテラン勤務者はもとより初心者にも負担なく職場に馴染める、無理のない勤務形態になっているのだ。
それに奏子が単なるステップアップという面だけでなく、その内容に魅力を感じたのは、契約社員になるにあたり会社の全面的なバックアップで調理師の資格を取らせてもらえるというところだ。逆を言うなら、契約社員になるにはまず調理師資格を取得する必要があるということになるが、今ならまだ暗記物は何とかなりそうだし、受験対策の講習会も会社が講師を頼んでくれるらしい。
会社に正式な返事はしていなかったが、すでに彼女の中では「やりたい」という意志はほぼ固まっている。
今はまだ、この職場を辞めるつもりなどまったくないが、この先将来のことは分からない。だからこそ、何かあっても自信を持って自分を売り込めるスキルと資格を持つことが大事なことだと、奏子はここに勤め出してから痛感した。
もちろん、厨房の管理者であり上司でもある守谷にも相談済みだった。しばらくは休日もそちらの勉強に重きを置いて時間を割くことになりそうだということも、彼には了承してもらっている。
せっかくお付き合いを始めたばかりの守谷に、自分の勝手な都合で我慢してもらうのは心苦しいが、今の奏子のキャパシティでは両方を無難にこなすことは到底無理なのだから仕方がないことだ。その点は守谷も理解してくれているからありがたい。


家事をこなす傍らパート勤めをし、その合間にテキストを開く。またその隙間にできた限られた時間を守谷とのデートに当てる。
数年前まで夫の帰りを待つだけの妻だった自分には想像もできないくらい多彩で多忙な日々は、同時にわくわくが止まらない、心躍る時間でもあった。
毎日が一杯一杯で、必死で、でもすごく楽しい。
体はくたくたなのに気分は高揚していて、つい自然に笑みが零れてくる。
そんな奏子に、彩乃は一時滲ませていた不快感を改め、守谷との交際についても容認する態度を見せたし、両親や兄姉も、彼女の充実した様子を、安堵感を持って見てくれるようになった。
守谷との交際を公にしたことで、さすがに史郎に対しては少し気まずい思いはしたものの、彼も奏子の決断を受け入れ、認めてくれたことは何よりも嬉しかった。
「今、幸せかい?」
史郎の問いかけに、何の躊躇いもなく素直に頷けた。それを見た彼は「そうか」とだけ呟くと、優しく微笑んでくれた。
それはまだ、二人が婚約時代にしばしば見た彼の笑顔だ。結婚して、夫婦となってからは薄氷を踏むような生活の中で、彼のそれは何時しか見ることが叶わなくなっていき、奏子も今までその存在すら忘れかけていた。
よかった。史郎さんは変わっていなかったんだ。
彼の笑顔に胸がきゅんと締め付けられる。かつて自分に向けられていたその微笑みに、奏子はときめく気持ちを禁じ得なかった。

自分と結婚したことで彼に強いた緊張は、二人からこんな些細な幸せまでも奪っていった。思い詰めた自分が彼の重荷になり、彼がそれに無言で耐えている様を見せつけられることで、また己の至らなさを思い知る。
言葉が足りない二人は、どうしてもその悪循環を断ち切れなかった。今から思えばすれ違う気持ちに堪えきれなくなる前にひと言でも、そう、たったひと言でもいから自分の思いを伝え、史郎の本音を聞き出す勇気を持っていたならば、必要以上に互いを追い込まずに済んだのかもしれない。
離婚してから今まで、彼に対して申し訳ないという負い目しか持てなかった奏子だが、史郎と正面から向き合って自分の決意を伝えられたことでようやく一つ、区切りがついたように感じた。それはともすれば、彼との完全な別れを意味することになるやもしれないが、それでも史郎に認めてもらえたことで、卑屈だった過去の自分と決別できたと思えた。


それからしばらくして、多忙な生活も一段落ついた頃、彼女は守谷から家族に会ってほしいと言われた。もちろん、今はまだ、付き合っている女性を紹介する、というレベルの話で、将来に向けてはっきりとした前提条件のあることではない。
最初は尻込みしていた奏子だったが、取りあえず両親から交際相手の顔を見せて欲しいと言われたという守谷の言葉もあって、それならばと承諾の意を伝えた彼女は週末の休日を使って彼の両親が住む真田家を訪れることにした。
自分たちの年齢や置かれている環境を考えても、周囲から期待されることがあることは彼女にだって分かる。しかし今の奏子にはまだそこまでの覚悟はできていないし、そのことは守谷もその家族も充分理解してくれていると思っていた。
しかし、そこで奏子を待ち受けていたのは、今の彼女には到底受け入れられないような言葉だったのだ。




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