「どうしたの?何かあった?」 夜遅くなる時にはいつも帰る前に連絡をするようにしているが、それで彩乃が自分を迎えに外に出てくるなんてことは未だ嘗てなかった。驚いている奏子に、彼女は横目で運転席をちらりと伺った。 「わざわざ送って頂いたんだから、上がってもらってお茶でもどうかと思って」 「そ、そっか。私、そこまで気が回らなかったわ」 そう言って慌てて運転席の方に向かってきた奏子を見た守谷は、彼女が呼びかける前に自分の方から窓を開けた。 「どうかした?」 「あ、いえ、その、せっかくなんで、上がって頂いてお茶でもどうかなと思って……」 その誘いに守谷はしばし考える様子を見せたが、結局きっぱりと首を横に振った。 「いや、今日はもう時間も遅いことだし、遠慮させてもらうよ」 「そ、そう?そうですよね。あまり引き留めてもかえってご迷惑ですよね」 「いや、その気持ちはすごく嬉しいんだけど」 そんな二人の会話を後ろで少し離れた場所で聞いていた彩乃は、ふんと小さく鼻を鳴らした。その様子に気付いた守谷はいつもの如才ない笑みを浮かべて奏子ごしに彩乃に向かって会釈する。彩乃はそれに対して胡散臭そうな目を向けたがその対応は表面上は丁寧だ。 「ウチには私と奏子しかいないので、遠慮なさらなくても、よろしいのに」 「それなら尚更、女性ばかりのお住まいに僕のような男が入り込むのは拙いと思いますが」 「まぁ、そんな。しかし、そこまでお気遣いをいただかなくても……」 「いえ、このくらいのことは普通ですよ」 言っていることは上滑りながら社交辞令のようにも聞こえなくはない。しかしこの両人の間で交わされると、会話の応酬が別のものに思えてくるから恐ろしい。 これは俗にいうところの腹の探り合いなのだ。この猫かぶりな二人は、上辺こそは当たりが柔らかいものの、実は背中にはそれぞれひっそりと見えない巨大な猫を背負っている。 腹黒同士がガチでぶつかり、目には見えない火花を散らす。 互いの出方を探る二人の間に挟まれた奏子は、その雰囲気に気圧されて安易に口をはさむこともできず、なすすべなく交互に表情をうかがうしかない。 な、何かおっかないよぉ。 言葉使いの丁寧さとは裏腹に二人の表情は冷ややかで、見えるものと聞こえるもののギャップが凄まじい。 「久世さん、もう中に入った方がいいよ」 戸惑いの表情を浮かべる奏子に先に気付いたのは守谷だ。 「そうね。奏子も疲れているだろうし、先に帰ってお茶の用意でもしておいてくれる?」 「う、うん。分かった」 なぜ彩乃は一緒に戻らないのか、という疑問を抱きつつ、彼女はその場を逃れたい一心で言われるままに頷いた。そしてまだ白々とした冷気を漂わせている二人に背を向けると逃げるように小走りでマンションの中に入って行ったのだった。 まるでライオンの檻の中から逃げ出したウサギだわね。 その後ろ姿を見ながらくすりと笑った彩乃だが、車の方を振り向いた時にはその身に纏う雰囲気が一変していた。対する守谷も、奏子がいた時に浮かべていた穏やかな表情は消え、その代わりに冷ややかな目で運転席から彼女を見上げている。 「さて、と。ここからが本題よ、守谷さん。いえ、真田さんと言った方が耳馴れているかしら」 「どちらでも、君の良い方で構わないよ。できれば守谷で通してくれた方がうれしいけど」 「それじゃ守谷さんということにしておくわ。単刀直入に聞くけど、あなた奏子のことどうするつもり?本気なの?」 まるで戯れで付き合っている、とでも言いたげな言葉に、守谷は少し眉を顰めたがすぐに何事もなかったかのようなポーカーフェイスに戻る。 「もちろん」 「ふぅん、そうなんだ」 「今はまだ、彼女の方が現状に戸惑っている感じだから、気持ちがこっちに向くまで気長にやっていくつもりだけど」 彩乃は頷いたが、その顔はまるで信じていないとでも言いたげだ。 「そう、分かったわ。でもあなたはそれでいいかもしれないけど、ご家族はどうなの?」 「もちろん、家族の理解も得つつ、最終的には彼女の意思を第一にとは思っている……」 「だから、問題はそこなのよ」 彩乃は守谷の言葉を途中で遮ると、彼の鼻先にびしっと、爪の先まで手入れの行き届いた人差し指を突きつけた。 「本人はそれでいいって思っているでしょうけど、それで真田夫人……あなたのお母様は納得してくれるの?」 そこで守谷はようやく彼女が憂慮していることを察したようだ。 「……そう言えば、君はウチの母親と面識があるみたいだね」 「そっちだって。こっそりいろいろと調べたんでしょう?奏子と一緒に住んでいる私のことなんか真っ先に調査済みだと思ったけど」 真田家の現当主の夫人は彩乃の勤務する宝飾店の上客だ。デザイナーとして直接関わりを持ったことこそないものの、来店すれば接客はするし、注文書類の作成などの雑事の際にもその動向を知ることが可能だ。 彼の母親は、一言で言えば苦労知らずの有閑マダムそのものだ。 夫の財産で資金は潤沢だし、あちらこちらに人脈のパイプを持っていて、大概のことは自分の思い通りになる。 例えば注文したネックレスの納期が使いたいパーティの日までに間に合いそうにない、という時でも「そこを何とかして下さる?」と掛け合ってくる。言いかえればそれは「その日に使いたいから何とかしろ」ということで、そうなれば社長以下、全従業員が使えそうな伝手をフルに使ってでも間に合わせざるを得なくなってしまうのだ。 救いは、本人がわりとまともな感覚の持ち主で、高飛車で傲慢な、ザマス奥様だとか言う類の人物ではないことだろうが、それでも時として見せる我侭さと押しの強さは驚くほどだと噂に聞いている。 その真田夫人、守谷の母親が息子の結婚に関してそれほど鷹揚な姿勢を見せるとは到底思えない。 その上、分が悪いことに奏子には離婚歴がある。家格云々に関しては、奏子の実家もそこそこの家柄なので左程問題ではないのかもしれないが、それでもあの夫人が息子の嫁になる女性の経歴について二つ返事で了承したとは考えにくい。 「奏子のこと、よく許してもらえたわね」 誰に、とは言わない彩乃に、守谷は苦笑いしつつ小さく肩を竦めた。 「まぁね。僕はもう、実質真田の家の人間ではないからね」 そのことがまるで清々したといいたげな口ぶりに、思わず彩乃は唇を尖らせた。 「それでも夫人にとっては息子でしょう?」 「悲しいかな、それだけは変えられない事実だけどね。でも僕は僕で、考えていることがあるし、それに今は真田家とは距離を置いているから」 それは彩乃には初耳だったが彼の気持ちも分からなくはない。 確かにお金持ちの家に生まれることは幸運だ。しかしそれなりに苦労もある。 こうあるべきという周囲からの締め付けは息苦しいし、過度な期待は時に自らの意思をも曲げざるを得なくなってしまう状況を招く。守谷のこの、一癖ありそうな二面性も、もしかしたら幼少時からのそういった環境に適応するために自ら作り出したものなのかもしれない。 一時とはいえ、同じような状況に置かれた経験を持つ彩乃には彼の言わんとしていることも一応は理解できる。しかし、そんな不確かで適当なことを言われて、ああそうですかと納得する気にはなれなかった。 「それじゃあなた、もし何かあった時に周りから、家を取るか奏子を取るかって迫られたら、無条件で迷わず即座に奏子を選べる?」 彩乃の問いに、守谷は少しだけ考える様子を見せた。 「……難しい問題だね。恋愛感情だけを優先することができる状況だったら、可能だと思う。でも一気に全部を、家族も仕事も、持っているものすべてを切り捨ててしまえるかといわれると、その時になってみないと分からない、としか答えようがないな」 それを聞いた彩乃は「おやっ」という顔をした。 彼女はてっきり彼が「できる、当たり前だ」と言うと思っていたからだ。 耳触りが良くて上滑りするだけの言葉を吐くような男なら、今日この場でけちょんけちょんにやっつけるつもりだった。彩乃が知る限り、恵まれた環境で育ったこういうタイプの男は口が上手くて、世慣れない女性はついついそれに乗せられてしまう。奏子もそうなっているのではないかと彩乃は危惧していた。 しかし守谷はそれだけではないようで、少なくとも自身がどんな立場にいるかをしっかりと理解しているように思える。どうやら彼は中味がスカスカで移り気な、ただの金持ちのぼんぼんというわけでもなさそうだ。 それでも彼が背負っているものは今の奏子にはまだ重すぎる。そう思えばこそ、守谷を牽制して少し遠ざけ、奏子に考える時間の余裕を与えておいた方がよいと感じるのだ。 「とにかく、あの子を傷つけることだけはしないでよね」 「ご忠告、肝に銘じておくよ」 守谷はそう告げると、窓ガラスを上げて、彩乃が離れたのを見てから車を動かしだす。 その車が走り去るのを見届けた彩乃は、一気に脱力した。どうやら自分は思っていた以上に気張り強がりを見せていたようだ、ということにようやくそこで気付いたのだ。 でもこれで出来るだけの予防線は張っておいた。少々お節介とは思いつつこんなことをしてしまったけれど、もうこれ以上のことは部外者である自分にはできない。 彩乃は自分の部屋に灯る明かりを見上げながら、心の中で呟く。 さぁ、これからどうするか、あとは奏子次第だよ、と。 HOME |