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   セカンド ・ マリアージュ  40


早朝の勤務を終えた奏子は昼前には実家に帰りついた。とはいっても午後も普段通りに仕事の予定が入っているので、滞在できるのは2時間くらいが限度だ。
「帰りました」
玄関で声を掛けると奥のキッチンにいたらしい母親が小走りに近づいてきた。
「お帰り、奏子。早かったのね」
「うん、でもあんまりゆっくりはできないんだけどね」
三和土で靴を脱ぎ、後ろを振り返った奏子は、そこに立つ母親表情がいつになく硬いのをみとめて眉を顰める。
「お母さん、一体どうしたの?」
「奏子、ちょっとこっちに来て」
それには答えず、母親は訝しむ奏子の手を掴むとさっき自分が出てきたキッチンの中へと娘を連れ込んだ。
「これ」
「えっ?」 母親が差し出したのは見慣れた小ぶりな白い紙の袋で、その中に奏子が病院でもらった薬が入っているはずだった。
「これ……もしかしてここに置き忘れてた?」
袋を凝視しながらの奏子の問いかけに、母親は首を横に振る。
「いいえ。届けて頂いたの」
「だ、誰から?」
「誰からだと思う?」
その声に非難めいた響きを感じ取り、狼狽えながら上目づかいに見ると、母親は少し憮然とした表情をしていた。
「もしかして」
「もしかして?」
母親の鸚鵡返しに、奏子は瞬時に最悪の答えを導き出した。
「もしかして……史郎さん?」
「もしかしなくても、史郎君から。家に忘れていったって」
それを聞いた奏子は、ああやっぱりとがっくり肩を落とした。
薬が見当たらなくなってから、彼女なりにいろいろと心当たりを探してみたのだが、あの日使った電車や地下鉄には該当の忘れ物は届けられていないと言われたし、病院も同様だった。もちろん、道端に落としてそのまま片づけられた可能性もなくはないが、一旦バッグの中に入れたものをそう言った場所で落とすということは考えにくい。そう思ってあの日自分が歩いたり立ち寄ったりした経路を思い返しているうちに、浮かんできたのが史郎のマンションだったのだ。
できればそうであって欲しくない。
その願望もあって極力現実を見ないようにしていたが、そこ以外の場所にはそれらしきものはどこにもなかったことから嫌な予感はしていた。しかしまさかそれが母親経由で詳らかになるとは夢にも思っていなかったのだ。
「それで」
「そ、それで?」
今度は奏子が恐る恐る鸚鵡返しをする。その先に何を言われるのか恐ろしいくらい、母親の顔がしかめっ面になっていたからだ。
「これはあなたのお薬よね、この前の火傷の傷用の。それがどうして史郎君の手元にあったのかしら?」
この前、史郎が倒れた時に自分が彼の元を訪ねたことは家族の誰にも話していなかった。下手にそんな話をすれば、どうして彼女が彼のマンションに入れたのかということも説明する羽目に陥るからだ。
別れた夫から今の家の合鍵を預かっているなんて言えなかった。ましてや、いくら彼のことが心配だったからとはいっても、そこにのこのこ出かけて行って、挙句の果てに病人にベッドに押し倒されたなんて、思い出すだけで恥ずかしくて顔から火が出そうだ。
「それで、これはどういうことなのか、ちゃんと説明してちょうだい」
心の中で悶えている奏子の葛藤を知らない母は、一人で百面相をし始めた娘に畳みかける。
母親は普段はおっとりした人なのだが、ひとたびこういう表情をした時には容赦がない。何せ生まれた時から二十年以上親子をしているのだから、下手に誤魔化したり隠し立てなどしようものなら、たちまちびしっと手厳しい指摘をされることは身に染みていた。
「わ、分かった話すからちょっと待って。心の準備が……」
「心の準備って、これってそんなに大ごとなの?」
彼女の狼狽ぶりに、母親は少し呆れたような声を上げた。
その経緯まで話すとなると充分大事です。少なくとも私には。奏子は心の中でそう呟く。
さて、どこから話せばよいものなのか。
そう思っていた彼女の耳に届いた声は、今日に限ってはまさに天の助けだった。
「奏子?来ているのか?」
「お父さん」
なかなかリビングに現れない娘に痺れを切らした父親が彼女を探してキッチンに入って来た。それを見た母は何か言いたげな視線を娘に投げかけたが、賢明にも口を開くことはしなかったことから、多分父親の話は別件なのだろう。
「あまり時間がないって言ってたわりに、のんびりしているな」
そう言われて時計を見ると、ここに来てからすでに30分近く経っていた。
「まぁいい。とにかく早くこっちに来なさい。話がある。母さん、お茶を淹れてくれ」
父親は娘を促すとキッチンから出て、後に残る妻を振り返ってお茶を要求する。少し不満げに了解した母に、奏子は声を潜めて身振りで伝える。
「後で、夜にでもまた電話するから」
それに頷く母親に頷き返すと、奏子は先を行く父親の後を追ってリビングへと向かった。

ドアを開け、室内に入ると、ちょうど父親がソファーに腰を下ろしたところだったので、使っていた杖を受けとり専用のスタンドに立てかける。
「おお。ありがとう」
手が空いた父は側に置いてあった封筒を開けると、中から何やら厚みのある紙を取りだした。
「これは何?」
「開けて見なさい」
目の前に差し出された紙を受けとると、奏子は訝しげな顔をしつつも折りたたまれた紙を丁寧に開いた。そしてその中を見た瞬間、彼女は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「な、何、これ?」
「見て分からんか?」
「分かる、分かるけど、何でこんなものがウチに?」
それを聞いた父親は、少し渋面を作って彼女を見た。
「昨日あちらから正式に、手順を踏んで寄越して来た」
父親は奏子が手にしているものを顎でしゃくりながらそう答えた。そして少し持て余した様子でぽりぽりと顎を掻いている。
「正直言って、儂も驚いているところだ。まさかあの若者がなぁ……」
父の困惑気味な声もパニック寸前の奏子の耳には届かなかった。それもそのはず、彼女が手渡されたのは見合いにはよくありがちな釣り書き、それも守谷の実家からの正式な身上書だったのだ。




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